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オランダ独立戦争Ⅲ  オラニエ=ナッサウ家の台頭

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 ネーデルラントのスペインに対する抵抗運動で名前の上がったオラニエ=ナッサウ公ウィレムとは何者でしょうか?実はナッサウ家というのはドイツ西部ライン地方の名門貴族です。オラニエ=ナッサウ家はその支流でした。ナッサウ伯家はライン河を下りネーデルラント地方にも勢力をのばします。ウィレムはナッサウ=ディレンブルク伯ウィルヘルムの長男ですが、父からライン地方の領地を受け継ぎ、母方の叔父から南フランスのオランジュオランダ語でオラニエ)公領を相続しました。そのためウィレムはオラニエ=ナッサウ公と呼ばれます。ちなみに本領のナッサウ=ディレンブルク伯領(ウィレム継承分を除く)はウィレムの弟ヨハン6世が受け継ぎました。
 
 オランジュ公家は代々ブルゴーニュ公国に仕えており、後にハプスブルク領になりスペインハプスブルクが受け継いだ後もネーデルラントの有力貴族としてスペイン王家に仕えました。ウィレムもフェリペ2世の父神聖ローマ皇帝カール5世の侍従として仕え、カールが1555年ブリュッセルで退位の式典を挙げた時は、皇帝の腕を支えるという重要な役割さえ与えられました。フェリペ2世当時、ネーデルラントの副司令官という重職だったのです。
 
 ところがカルバン派プロテスタントだったウィレムは、カトリックの擁護者として異端審問で新教徒を弾圧するフェリペ2世としだいに相容れなくなり、フェリペ2世ネーデルラントの新総督アルバ公を使って有力貴族の処刑を始めた際生命の危機を感じてドイツに亡命したのです。
 
 亡命とは言っても、彼が落ち着いたディレンブルクは実の弟ヨハン6世が治めるオラニエ=ディレンブルク伯領。ライン地方には彼自身の領地もあり心細さはなかったと思います。それどころかここで軍隊を募ってネーデルラントへの反攻さえ企てていました。ネーデルラントで抵抗を続けるカルバン派の貴族や民衆たちもオラニエ公ウィレムに期待したのは当然でした。
 
 最初反攻作戦は上手くいきませんでした。というのもスペイン軍は当時世界最強だったテルシオ戦術(第Ⅳ話で詳しく述べます)を採用し、寄せ集めのオラニエ軍では太刀打ちできなかったのです。ネーデルラントに侵入してはスペイン軍に撃退されるという事を繰り返し、海乞食(亡命した乞食党が海賊化したもの)やフランスのユグノー(新教徒)と結んであらためて低地解放の策を練りました。
 
 ウィレムはまずネーデルラント北部のホラント・ゼーラント両州の解放を目指します。というのもスペイン軍主力は経済の中心で重要な南部のフランドル、ブラバント地方にいたからです。戦いは海乞食(ゼーフーゼン)の活躍もあり成功、ウィレムは1572年ドルトレヒトのホラント州議会でホラント州総督に就任します。
 
 北部は解放したものの、南部ブラバント侵攻は失敗に終わりました。スペイン軍は逆襲に転じ失地を次々と奪回、1572年末にはホラント州に突入します。独立戦争最大の危機でした。中でもアルクマール市の攻防戦は熾烈を極めウィレムは堤防を決壊させるという最終手段でついにスペイン軍を撤退に追い込みます。さらに内海ゾイデル海に侵入していたスペイン艦隊も海乞食の奇襲に敗れたためアルバ公の北伐はあと少しのところで失敗しました。堤防決壊による水没作戦は低地地方でなければ採用できない作戦です。ウィレムの捨て身の作戦が功を奏したのでした。
 
 アルバ公は、遠征の失敗で国王フェリペ2世の逆鱗に触れ解任されます。アルバの後任ドン・ルイス・デ・レケセンスは融和政策に転じ騒乱裁判会議を廃止、重税も改めました。が、融和政策は逆効果で北部は完全にカルバン派の勢力が支配し信教の自由を標榜しながら実質はカトリックを抑圧、カルバン派の政治を行いました。スペイン軍は何年も占領軍としてネーデルラントに駐留したため住民の不満は爆発寸前でした。一方反乱軍も大国スペインとの戦争で疲弊していましたからここに講和の機運が生じます。
 
 1576年11月、ガンの和平が成立。フェリペ2世の国王権は承認されたもののスペイン軍の撤退が決まりました。公認宗教もカトリックとされたものの宗教迫害は禁止、ホラント、ゼーラントに関してはカルバン派も認められます。
 
 
 しかし、これは一時的な和平にすぎませんでした。フェリペ2世がこのような屈辱的条件を認めるはずはなかったからです。新執政ドン・ファン(フェリペの異母弟)は早くも1577年7月ナミュール城を奇襲占領するとともにフェリペ2世にスペイン軍派遣を要請します。ネーデルラント全国会議は、裏切ったドン・ファンに怒り新しい執政としてオーストリア大公マティアスを招きますが、その間オラニエ公ウィレムの声望は著しく高まります。ユトレヒト州議会もウィレムを総督と認め同年9月にはブリュッセル入城を果たしました。ドン・ファンが本国から来援したスペイン軍を率い北上してくると情勢は危険な方向に進みます。
 
 ガンの急進的カルバン派は、独裁制を布きカトリック大弾圧を開始。これに同調した各地のカルバン派がウィレムの統制を離れ過激化、事態は混沌としてきました。ウィレムは、1578年8月宗教平和を提案して新教徒旧教徒の融和を図りますが上手くいかず、ネーデルラントは両派による内戦に突入します。ドン・ファンの後任パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ(元執政マルガレータの子)は、この事態を冷静に眺め南部諸州のカトリック教徒と講和を結びネーデルラントの分裂を策しました。
 
 ウィレムは、これに対抗し北部7州(ホラント・ゼーラントユトレヒト・ヘルデルラント・オーフェルアイセル・フリースラント・フロニンゲン)の間にユトレヒト同盟を結成、実質的なカルバン派の統一勢力を作ります。ネーデルラント分裂の始まりでした。新執政パルマ公はなかなかの外交巧者で、懐柔策を持ってフロニンゲンとドレンテの大半を同盟から脱退させました。
 
 ウィレムは、北部7州の独立を目指し統一国家の国王としてフランス王の弟アンジュー公を招聘しますがこれは失敗に終わります。カトリック教徒のアンジュー公は、しょせんウィレムの傀儡にしかすぎず、それを不満としてフランス軍を使ってクーデターを企てますが敗れてフランスに逃げ帰りました。オラニエ公ウィレムにはスペイン王の命で一切の法律上の保護が剥奪されていました。その首に懸賞金まで掛けられていたのです。
 
 1584年7月、事実上の初代オランダ総督(ホラント・ゼーラント州その他の総督)オラニエ=ナッサウ公ウィレム1世はフランス人カトリック教徒の刺客によって暗殺されました。享年51歳。
 
 
 オランダ独立をかけた戦争は激化の一途を辿ろうとしていました。指導者を失ったユトレヒト同盟はどうなったでしょうか?次回、ウィレムの後を継いだ軍事的天才オラニエ公マウリッツの活躍とテルシオ戦術、マウリッツ式大隊の優劣を論じます。