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概説ロシア史Ⅸ  女帝エカテリーナ2世

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 18世紀というのは世界史とくに欧州史にとって大きな転機になった時代だと思います。それまで世界史の主役だったオランダ海上帝国が陰りを見せ、北欧・東欧でもスウェーデン・バルト帝国が崩壊、ポーランドリトアニア合同も1655年から16667年まで続いたスウェーデンポーランド侵略(大洪水時代)、1660年のプロイセン公国独立で大きく国力を後退させ大北方戦争で止めを刺されました。1733年に始まったポーランド継承戦争ではスペイン、フランス、ロシア、ザクセンプロイセンの介入を受け完全に没落します。以後ポーランドはロシア・オーストリアプロイセンの緩衝国という惨めな存在に成り下がりました。
 
 代わって台頭したのはロシア、プロイセンなどでした。ロシアの発展も著しいものでしたが、プロイセンポーランドから独立したのが1660年。1701年にはフリードリヒ3世がスペイン継承戦争神聖ローマ皇帝を援けたことで王号を獲得、プロイセン王国フリードリヒ1世として即位します。その子フリードリヒ・ウィルヘルム1世(在位1713年~1740年)は「兵隊王」と渾名されるほど質実剛健を実行し強力な常備軍を整備しました。少ない人口(当時400万)の中から8万の常備軍を持つようになったのですから驚きます。その発展のスピードは遥かにロシアを凌駕し、有名なフリードリヒ2世(大王 在位1740年~1786年)の時代を迎えるのです。
 
 ピョートル1世以後のロシアは、皇位継承で揉めやや停滞しました。大帝の死後まず皇后エカテリーナ1世が近衛兵の支持で即位。在位2年で死去するとピョートルに廃嫡されたアレクセイの子ピョートル2世(大帝の孫)が継承しました。この時首都はモスクワに戻されます。1730年ピョートル2世がわずか14歳で死去すると、今度はピョートル1世の異母兄イヴァン5世の娘アンナが貴族たちに擁立されました。こうなると皇帝権力は弱まり貴族たちが国政を動かし始めます。特にアンナはクールラント公に嫁いでいたためクールラントのドイツ系貴族たちが台頭してきました。1740年アンナが死去し、イヴァン5世系のイヴァン6世が即位しました。といってもわずか生後2か月の赤子、このままではドイツ人に支配されると危惧した近衛兵たちはクーデターを起こしてイヴァン6世を廃位、ピョートル1世の娘エリザベータを即位させます。
 
 エリザベータは、近衛隊を率いてクレムリン宮殿に入ると幼帝を幽閉、ドイツ系貴族の有力者ミュンニッヒ、オステルマンをシベリア送りにしたそうです。エリザベータには嫡出子(愛人の子はいた?)がいなかったためホルシュタイン公国に嫁いでいた姉アンナの子ピョートルを後継者に指名しました。ところが皇太子ピョートルはドイツ人意識が抜けず(実際ドイツ人ですが…)、同じドイツ人のプロイセン王フリードリヒ2世を崇拝し女帝から嫌われていました。
 
 エリザベータ女帝(在位1741年~1762年)の時代に7年戦争(1756年~1763年)が起こります。エリザベータオーストリア女帝マリア・テレジアと組みロシア・オーストリア・フランスでプロイセンを袋叩きにすべく宣戦布告しました。ところがフリードリヒ2世は、エリザベータが驚くほどの戦争の天才で不屈の闘志で戦いぬき、ロシア軍はしばしば戦闘で敗北します。しかし多勢に無勢、ロシア軍はプロイセンの首都ベルリンを一時占領。このままいけば連合軍の勝利に終わるかに見えました。ところが戦争のさなか、エリザベータ女帝急死。後を継いだピョートル3世はもともとフリードリヒ大王贔屓だったため単独講和して戦争から脱落しました。フリードリヒはこの奇跡のような幸運を最大限に生かし反撃に転じます。結局オーストリアから奪ったシュレジェン地方を守りぬき列強の仲間入りを果たすのです。ちなみにシュレジェン地方は資源が豊富で工業も盛ん、当時のオーストリア工業生産力の3分の1を占めていたと云いますから、この地方をプロイセンが獲得した意味は大きかったと思います。
 
 実はエリザベータ死去の段階でロマノフ朝の男系は途絶えました。ですから以後をロマノフ朝と呼ぶのは抵抗があるのですがそのまま続けます。ピョートル3世は、ドイツ出身でその妻もエリザベータ女帝がアンハルト公の娘エカテリーナを迎えていました。ピョートル3世はドイツ贔屓でロシアより出身国ホルシュタイン公国の利益を重んじる政策を進めたためロシア貴族の怒りを買います。加えてホルシュタインのためにデンマークと戦争を企てたことで我慢の限界に達した近衛隊はついに決起、クーデターを起こしピョートル3世を廃位、後に彼は殺されます。実はこのクーデター、ピョートルの皇后エカテリーナとその情夫で近衛将校だったグレゴリー・オルロフが首謀者で、ピョートル3世を殺したのもオルロフでした。
 
 エカテリーナは野心家で、この日のために近衛兵を手なずけていたと云います。ピョートル3世は精神薄弱だったと評価させる事が多いですが、これはエカテリーナ側の悪宣伝で事実ではないと指摘する史家もいるそうです。エカテリーナは、ロシア人の血が一滴も入ってないにもかかわらず即位します。すなわちエカテリーナ2世(在位1762年~1796年)です。
 
 その私生活は何人もの愛人を抱えるだらしないものでしたが、一方彼女の時代にロシア帝国が発展してのも事実でした。一説ではピョートルとの間に生まれたとされる息子パーヴェルも実子ではないと噂されるほどです。そのせいか、母子関係はぎくしゃくしたままでした。
 
 エカテリーナは、即位の翌年国王アウグスト3世死去で内紛が起こったポーランドに介入、プロイセンのフリードリヒ2世と組んで1764年ポーランドの有力貴族チャルトルイスキー家の出身で自分の愛人の一人だったスタニスラフ・ポニアトフスキーをポーランド王位に就けることに成功します。ところが意外に新国王がまともな政治を行った事を不快に思ったのか、再びフリードリヒ2世と組んでオーストリア皇帝ヨーゼフ2世を仲間に引き入れ1772年第1次ポーランド分割を行います。
 
 ヨーゼフの共同統治者だった母親オーストリア女帝マリア・テレジアはあまりにも恥知らずな侵略行為に激怒息子を生涯許さなかったそうです。それにしてもポーランド人の哀れさはどうでしょう?敵国の女帝の愛人を国王にすげられたばかりか、国土まで奪われたのですから。ポーランド分割は第2次(1793年)第3次(1795年)と繰り返され、ポーランドという国はこの時消滅しました。
 
 またエカテリーナ2世は長年の宿敵クリミア汗国にも攻撃を続け、1768年露土戦争開始、1774年のキュチュク・カイナルジ条約でまずクリミア汗国をトルコから独立させます。そうしておいて本格的な侵略を開始、1783年条約を破ってクリミア汗国をロシア帝国に併合しました。
 
 エカテリーナ2世は、豪放磊落で派手好み私生活も乱れ切っていたそうです。愛人は公称10人、非公認なものを加えると数百人はいたという証言もあります。一番有名なのはポチョムキンですね。ただし人格的欠点はあるものの有能な君主であった事は事実。愛人たちにも公的な権力を持たせない良識は持ち合わせていました。皇帝権力強化のために貴族たちの要求を入れ農奴制を強化します。これが1773年のプガチョフの乱へと繋がりました。
 
 息子で皇太子であったパーヴェルとは父殺し、母親の愛人問題などもあり生涯確執が続いていたそうです。そのためかエカテリーナ2世は、パーヴェルの長子アレクサンドルを溺愛します。孫アレクサンドルは彼女の薫陶を受け後に有能な皇帝になりました。すなわちアレクサンドル1世です。
 
 1796年11月5日、エカテリーナ2世脳卒中の発作に襲われ意識を失います。女帝危篤の報を受け冬宮に向かったパーヴェルは外務大臣べズボロドコから女帝の遺言書を受け取ったそうです。そこにはアレクサンドルを後継者にすると書かれており、受け取ったパーヴェルはそのまま焼却したとされますが真相は分かりません。11月6日、エカテリーナ2世は意識が回復しないまま崩御、享年67歳。皇太子パーヴェルがそのまま即位しました。
 
 
 次回はパーヴェルの短い治世、そしてアレクサンドル1世とナポレオン戦争を描きます。