けっして前弩級戦艦ドイッチラント級のシュレジェンあるいは同級艦のシュレスビヒ・ホルシュタインの事ではありません(爆)。こっちの方がよけい分からないか?一応戦艦の方も画像を載せときますが…。
こっちもいつか記事にすることもあるかと(趣味書庫で)思いますが、今回はその命名元の土地の事です。
シュレジェン(シレジア)は現在のドイツ、ポーランド、チェコ、ハンガリーにまたがる地域で、歴史的に周辺諸国に次々と支配者が変わる悲劇の土地でした。
なんで周りの国々がこの土地を欲しがったかというと、豊かだったからなんですね。ヨーロッパではフランドル地方などと並ぶ工業先進地域で、おまけに鉱物資源まであるという美味しい土地でした。
ちなみに1241年モンゴルのバトゥがポーランド・ドイツ騎士団連合軍を破ったリーグニッツ(ワールシュタット)はこのシュレジェンにあります。
シュレジェンは長らく神聖ローマ帝国とポーランドの係争の地になりますが14世紀の初めにボヘミア王国に組み入れられ神聖ローマ帝国の領邦(ボヘミアは神聖ローマ帝国の選帝侯)になります。
シュレジェンが歴史の舞台に大きく取り上げられるのは1740年から始まったオーストリア継承戦争と1756年~1763年の7年戦争においてです。
オーストリア皇帝(神聖ローマ帝国は実質的に形骸化していたため)カール6世が1740年没すると、後継者マリア・テレジアに皇位継承を認める代わりにシュレジェン地方を割譲するよう要求したのがプロイセン王(兼ブランデンブルク選帝侯)のフリードリヒ2世でした。
歴史的に継承する権利あるとか嘘八百(どう考えても無理筋の要求だったらしい)を並べての要求でしたので、気丈なマリア・テレジアはこれを一蹴します。たかが一選帝侯ふぜいに大ハプスブルク家の後継者が屈っせられるかという反発が当然あったと思います。
するとフリードリヒ2世は、皇帝候補のザクセンやバイエルンの選帝侯と結び実力行使とばかりシュレジェンに侵入します。ようするに土地さえ手に入れば誰が皇帝になろうと知った事ではなかったのです。
フリードリヒ2世の用意周到さは、これにフランスとイギリスの後援を得た事です。ドイツ国内の問題が欧州列強を巻き込んだ大戦争になったのですからマリア・テレジアにとってはたまったもんではありませんでした。
孤立無援のマリア・テレジアは身重の身で(当時23歳、又従兄のロレーヌ公子フランツ・シュテファンと結婚していた)同君連合のハンガリーの議会に乗り込み演説をしてハンガリーの援軍を得ることに成功したという有名なエピソードはこの時のこととされます。
生き馬の目を抜く当時の欧州で悪人どもに酷い目に遭っている、美しい若き女帝(しかも身重!)の堂々たる演説はハンガリー貴族の同情を買いました。
こうして反撃の態勢に入ったマリア・テレジアでしたがどうしてもプロイセン軍には勝てませんでした。フリードリヒ2世は、性格は性悪(笑)でしたが、戦争にかけては当時右に出るものがないくらいの戦上手でした。
泣く泣くシュレジェン割譲を条件にプロイセンと講和し、それ以外のカス(失礼)を血みどろの戦いの末降したのは1745年のことでした。
こうしてかろうじて実力でオーストリア女帝(名目上は夫フランツが神聖ローマ皇帝)の地位を列強に認めさせたマリア・テレジアでしたが、シュレジェンを奪われた恨みは忘れていませんでした。
今度はフランス、ロシアと結び(外交革命)、1756年プロイセンに戦争を挑みます。
この戦いでは、孤立無援になったのはプロイセンの方でした。しかし唯一の同盟国イギリスの資金援助を頼りに何度か壊滅的危機に晒されながらもフリードリヒ2世は粘り強く戦い抜きます。
フリードリヒ2世は、戦況が有利な時も不利になってもシュレジェン領有だけは譲りませんでした。こうして7年の激闘ののち、ボロボロになりながらもシュレジェンを守り抜いたプロイセンは、ヨーロッパ列強の一員として欧州史に燦然と躍り出ます。
マリア・テレジアの無念は想像に難くありません。ただフリードリヒ2世もこの戦争で身も心もボロボロになったようです。以後極端な人嫌いになりサンスーシ宮殿に籠り、心を許せるのは飼い犬だけだったと伝えられますから、これを聞いたらマリア・テレジアも少しは気が晴れたかも?
シュレジェン地方は、以後プロイセンの領有になり、その後の工業化に大きく寄与しました。そして第2次大戦後シュレジェンはポーランド領にされ現在に至っています。