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ハプスブルク帝国Ⅸ  ウィーン体制

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 これはあくまで私見ですが、ロシアの宿将としてナポレオンのロシア遠征を撃退したクツーゾフには「老練」という言葉が似合うように思います。ナポレオン不在のスペイン戦線でフランス軍を苦しめ続けワーテルローで最後の勝利をもたらしたイギリスのウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーには「緻密」という言葉を贈ります。同じく叩き上げの軍人で諸国民戦争後パリに一番乗りしワーテルローでも決定的瞬間に援軍が間に合い連合軍に勝利をもたらしたプロイセンブリュッヘルは「堅実」としましょう。
 
 ところがオーストリア軍の最高司令官であったカール大公(皇帝フランツ2世の弟)は、1809年アスぺリン・エスリンクの戦いで初めてナポレオンに黒星を与えた人物の割にはこれら前記の人物から比べると地味な存在です。
 
 というのもカール大公の活躍は認めるにしてもオーストリア軍の戦いは全般的に旗色が悪かった印象が拭えなからです。ナポレオン最後の戦闘だったワーテルローでもオーストリア軍は蚊帳の外に置かれています。私が考えるに、19世紀は国民国家の時代に入っており多民族国家オーストリアはすでに時代遅れの存在になりつつあったということかもしれません。実際ドイツ諸侯はオーストリアではなくドイツ人国民国家プロイセンに期待していたふしがあります。
 
 ではオーストリアの強みは何か?というとそれは外交力でした。1814年9月ナポレオン戦争後各国代表をウィーンに集めその後の国家体制を話し合ったウィーン会議を主催したのはオーストリア外相メッテルニヒでした。
 
 メッテルニヒの方針を一言で表すと保守反動。フランス革命とその後のナポレオン戦争に疲れ果てた各国にとってはそれが自然な方向だったのです。しかし、各国の利害は衝突し会議はなかなか纏まりませんでした。そんな中1815年2月26日、「会議は踊る」と評されたウィーンに驚愕の知らせが入ります。
 
 ナポレオンがエルバ島を脱出しフランスに上陸。王政復古で王位に就いていたルイ18世を追放しパリに入城、再び帝位に就いたというのです。慌てた各国は第7回対仏大同盟を結成し、とりあえず難敵ナポレオンを倒す方針を決めました。
 
 1815年6月18日、ナポレオン率いるフランス軍7万2千、ウェリントン卿率いる英蘭連合軍6万8千がベルギー南部ワーテルローにおいて激突。運命の会戦が始まりました。最初優勢だったフランス軍ですが、ウェリントンが戦線を支えている間にブリュッヘル率いるプロイセン軍5万がぎりぎりで間に合い形勢逆転。ついにナポレオンは敗れました。
 
 この敗戦でナポレオンの百日天下は終わり、6月22日再び退位。ナポレオンは南大西洋の孤島セント・ヘレナに流されます。稀代の英雄はこの地で波乱の生涯を閉じました。
 
 
 ナポレオンの一連の騒動は、逆に各国の間に危機感を生じさせウィーン会議は妥協の末ウィーン議定書としてまとまります。ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で1815年9月オーストリアプロイセンとの間に神聖同盟を結成しました。
 
 オーストリアは会議の結果南ネーデルラント(現在のベルギー)をオランダに譲る代わりにヴェネチアを含む北イタリア、チロル、ダルマチアを得ます。フランスを含む列強各国はフランス革命を恐れ保守反動政治を行いました。
 
 しかしフランス革命の余波は弾圧すればするほど燃え上がり、返って各国に拡散していきました。ドイツ統一運動、ラテンアメリカ諸国のスペインからの独立。1830年にはフランスで7月革命。1848年には再びフランスで2月革命、オーストリアでも帝国各地で暴動が発生しました。ウィーン体制の崩壊です。会議の功績で帝国宰相になっていたメッテルニヒはついに失脚、イギリスに亡命しました。
 
 ドイツでは国民国家形成が急務という声が大きくなり、オーストリアを中心にした統一国家を目指す「大ドイツ主義」と、オーストリアを排除しプロイセン中心で統一する「小ドイツ主義」が対立します。1848年に即位したフランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年~1916年)はもちろん大ドイツ主義を推進しました。
 
 ところが皮肉なことに民族統一の流れはオーストリアの支配する北イタリアでも激しくなり、それをサルディニアのイタリア統一戦争に利用されます。フランスのナポレオン3世を引き込んだサルディニアは1859年オーストリアに挑戦。この戦争で敗北したオーストリアは北イタリアを失陥しました。
 
 悪い事は重なるもので、プロイセン宰相ビスマルクの策謀に踊らされ1866年普墺戦争でも敗北。統一ドイツからはじき出されます。結局プロイセン1871年普仏戦争でフランスに勝利、悲願のドイツ統一を果たしました。
 
 この頃オーストリア帝国は、1867年ハンガリー議会のアウグスライヒ和協法案によってオーストリアハンガリー二重帝国の道を歩み始めます。しかしこれはハンガリーの支配民族マジャール人オーストリアのドイツ人と同等の権利を認めたものにすぎず、それ以外の帝国諸民族には大きな不満を生じさせました。
 
 帝国各地には民族運動による暴動が巻き起こります。そして1914年6月28日サラエボ事件へと繋がるのです。
 
 
 次回、最終回ハプスブルク帝国の最期を描きます。