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ナポレオン戦記Ⅶ  ワーテルロー会戦1815年(最終回)

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 ナポレオンの敗北、王政復古はナポレオンの元帥たちの人生を変えます。1815年2月ナポレオンがエルバ島を脱出し不死鳥のごとく蘇った事が彼らの運命にも大きな影響を与えました。
 
 まず、ナポレオンの妹婿、ナポリ王ミュラについて語りましょう。ミュラはロシア遠征失敗の時からナポレオンを見限り離れる決断をします。1814年、連合軍側に接近しナポリ王国独立を画策しますが当然認められるはずもなくウィーン会議で王位剥奪。ナポレオンがエルバ島から脱出すると馳せ参じようとしますがナポレオンは裏切り者を許さず再びナポリへ。ワーテルロー後わずかな手勢を率いてナポリ奪回の挙兵するも失敗。処刑されました。
 
 次にナポレオンの参謀長、べルティエ。ナポレオン失脚後王政を支持し離反。しかしナポレオンがエルバ島を脱出すると旧主と現在の立場の板挟みにあい自殺。事故死という説もあります。
 
 勇将ネイの場合は、南フランスに上陸したナポレオンを討伐に向かったにもかかわらず旧主と相対するとあっさりと帰順しました。
 
 ダヴールイ18世に忠誠を誓った一人ですが、ナポレオンのエルバ島脱出を知っていち早くナポレオン支持に回ります。
 
 マッセナは王政復古時マルセイユ司令官。ナポレオンの百日天下では彼を支持するも軍には加わりませんでした。ワーテルロー敗戦後すべての官職を剥奪され1817年4月パリで死去。
 
 スルトは王政復古後戦争大臣。彼もまたナポレオンがエルバ島脱出すると馳せ参じナポレオンによりべルティエ後任の参謀総長に任じられました。ただ叩き上げの軍人で管理能力や戦略的思考に難があったためワーテルローでは致命的な失策を犯します。
 
 
 1815年3月20日ナポレオン軍パリ入城。ルイ18世は逃亡しフランス国民は圧倒的な支持で彼を迎えました。再び帝位に返り咲くナポレオン。連合国は第7回対仏大同盟を結成してこれに対抗します。
 
 ナポレオンは20万の兵を集めました。一方連合国は総勢70万。ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーはイギリス・オランダ連合軍10万を率いオランダへ。ブリュッヘル指揮下のプロイセン軍12万はナミュール方面へ。バークレーのロシア軍17万はライン河中流方面。シュワルツェンベルクのオーストリア軍25万はライン河上流方面へ。オーストリアサルディニア連合軍6万も北イタリアからフランス本土を狙いました。
 
 ナポレオンは、ベルギーでイギリス軍・プロイセン軍を叩けば連合軍は瓦解すると踏みます。各方面に最低限の守備部隊を配置すると自ら13万、火砲370門を率いてベルギー国境を越えました。この時フランス軍でもっとも戦術能力があったダヴーはナポレオンに同行する事を希望しますが、重要なパリ防衛を担当する人材が他にいなかったためナポレオンはやむなくダヴーを首都防衛軍司令官として止めました。歴史にIFは禁物ですが、ワーテルローの戦いダヴーがいたら結果は変わっていたかもしれません。
 
 
 斥候の報告でイギリス軍とプロイセン軍が60km離れている事を知ったナポレオンは、得意の機動戦術、各個撃破で両軍を叩こうと考えます。6月15日リニーに到達したフランス軍はまずプロイセン軍と当たりました。さすがに直接対決ではナポレオンに分があり、ブリュッヘルはたまらず敗走します。いつまでもプロイセン軍に関わっていては貴重な時間を逸するので、ナポレオンはグルーシーの軍団にこれを追撃させました。
 
 この時ブリュッヘルは負傷しており、参謀長グナイゼナウが代わって指揮を取ります。グナイゼナウは最初リエージュ方面に退却しますが、途中進路を西に変えワーブルに急ぎました。機転のきかないグルーシーは、プロイセン軍が敗走している事を侮り敵がリエージュ方面に退却しているものと思い込んでいましたから追撃も緩慢でした。この判断ミスが後に致命傷になります。
 
 ナポレオンの本隊7万2千は、ブリュッセルへ向かう街道を進みました。ウェリントンは6万8千の兵を率いブリュッセル街道の要害ワーテルローでこれを迎え撃ちます。イギリス軍は街道を見下ろす丘陵上に布陣しました。6月18日決戦の火蓋は切られます。ウェリントンとしてはその日のうちに来援すると約束していたプロイセン軍が来るまで持ちこたえれば良いと考えていました。一方、ナポレオンもプロイセン軍追撃に向かったグルーシーを呼び戻すべく参謀長スルトに命じて伝令を発します。
 
 戦いの帰趨はプロイセン軍の来援が早いか、それともグルーシー軍団が間に合うかにかかっていたのです。ところがスルトは、伝令を一人しか出しませんでした。後にナポレオンは「もし参謀長がべルティエだったらあの時伝令を1ダースも出していただろうに」と悔やんだと伝えられます。軍隊指揮官としては優秀でも、スルトは参謀長としては荷が重かったのでしょう。
 
 それでも戦闘は最初フランス軍が押し気味でした。イギリス軍と相対する南方の別の尾根に布陣したナポレオンは敵が丘陵上でよく見えないため前線の指揮を歴戦の勇士ネイに任せます。ウェリントンはネイの攻撃を支えきれなくなり午後3時百歩だけ戦列を後ろに下げました。これをネイが全面退却と勘違いし有名な5000騎の騎兵突撃を敢行。ウェリントンはなんとか撃退するものの、ナポレオンはこれを好機と考えデルロン軍団を右翼から突撃させます。
 
 夕方に入るとイギリス軍の敗色濃厚になっていました。ウェリントンは「ブリュッヘルか夜か死か!」という有名な言葉を叫びます。
 
 その時戦場の北東に一群の軍馬が現れました。両軍は固唾をのんで見守ります。それはプロイセン軍5万でした。ウェリントンは賭けに勝ったのです。一方、フランス軍の間には失望が走りました。午後4時30分、プロイセン軍を指揮するグナイゼナウは、迷いもなくフランス軍右翼に襲いかかります。こうなるとどうあがいてもフランス軍に勝ち目はなくなりました。精鋭近衛軍団の突撃も不発に終わり午後7時、ナポレオンはついに戦場を脱します。
 
 イギリス軍に追撃の余力はありませんでした。ところがプロイセン軍は余力十分で、グナイゼナウは夜間追撃まで敢行し90キロも進撃したそうです。そしてフランス軍はここでも甚大な被害を出しました。
 
 ワーテルロー会戦は、ナポレオン常勝伝説の終焉であると同時に、プロイセンの訓令統帥戦法が世界史上に輝きはじめる端緒でした。
 
 
 ナポレオンは、6月21日ようやくパリに辿りつきます。彼が率いたフランス大陸軍は4万以上の損害を出していました。人心はすでに離れています。ナポレオンはこれ以上抗戦の意欲を失い、6月22日退位を宣言しました。
 
 ほどなく連合軍がパリに入ってきます。連合国はナポレオンが二度と復活しないよう大西洋上の絶海の孤島セント・ヘレナに流しました。そして不世出の英雄は、1821年この地で波乱の生涯を終えます。享年51歳。
 
 
 
 
 ナポレオン戦争とはいったい何だったのでしょうか?私はフランス革命の結果であり、個人が軍を指揮し結果を出せた最後の戦争だったのではないかと考えます。これ以後、戦争はドイツ参謀本部に代表される組織の戦い、国家総力戦へと突入していきました。
 
 
 
 最後に、ナポレオンにつき従った元帥たちのその後を記します。
 
 
◇参謀長スルト
 ナポレオン退位後復活した王政復古では冷遇されます。しかし1830年の7月革命で革命派を支持して復活。戦争大臣から1832年首相。1840年にはナポレオンの改葬に立ち会い、のち大元帥の称号を受ける。1851年名誉と栄光に満ちた82歳の生涯を終えました。ワーテルローでは不手際を見せるも、彼がナポレオンの元帥中ではべルナドットに次ぐ勝ち組のような気がします。
 
 
◇ネイ
 敗戦後、フーシェ(警察大臣)は亡命を勧めますがこれを拒否。おとなしく拘束されます。ルイ18世はネイを反逆罪に問い、1815年12月6日銃殺。最後までナポレオンへの忠誠心を失いませんでした。
 
 
 ワーテルローの敗戦を知ると、手勢を率いパリを出発。勝ち誇るプロイセン軍を破り友軍の撤退を助けました。首都パリを守り抜いたのも彼の功績です。王政復古後すべての官職を剥奪されますが、ネイの裁判では危険を顧みず旧友を弁護。これが仇となり冷遇されますが3年後元帥の称号を取り戻し名誉回復。その4年後肺結核で死去します。彼こそナポレオン配下最良の司令官でした。
 
 
 ワーテルローでは大失敗したものの、敗戦後パリに戻りダヴーと協力して首都を死守。1840年ナポレオン改葬時にはスルトとともに立ち会っています。1847年死去、享年81歳。
 
 
 
◇べルナドット
 彼は他の元帥たちと違い同列には論じられませんが、1818年スウェーデン王カール14世ヨハンとして即位。彼のべルナドッテ王朝は現在まで続いています。ミュラと同様裏切り者として語られる事の多いべルナドットですが、ミュラとは違い裏切ったわけではないと思います。その時々与えられた自分の職責を忠実に守っただけだと考えるのです。これは想像ですが、べルナドットに関してはナポレオンもそれほど怒ってはいなかったような気がします。