ナポレオンは、欧州の強国プロイセンをオーストリア・ロシア同盟軍に合流させないために外交攻勢をかけていました。イギリス領ハノーバー(当時ハノーバー朝イギリスと同君連合)をプロイセンに譲る代わりにフランス側に付くかせめて中立を保つように、と。
冷静に考えればこれがナポレオンの甘言だと容易に分かります。フランスに対抗しうる潜在的敵国の力を強くするはずはないからです。同時にハノーバーという餌をちらつかせることでプロイセンとイギリスの離間を図る事が出来ます。プロイセンの国論が、親墺派と親仏派に分かれて激しい議論を重ねている間にナポレオンはアウステルリッツで勝利しオーストリアを屈服させました。こうなるとプロイセンに気兼ねする必要性が無くなります。
プロイセン首脳部に国家間のパワーバランスを理解できる者がいれば、少なくともアウステルリッツの段階でオーストリア・ロシア側に立って参戦しフランス軍を北方から襲うべきでした。この最大の機会を逸したことでプロイセンの命運は尽きたとも言えます。
時のプロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世(在位1797年~1840年)は優柔不断で決断力のない人物でした。むしろ王后ルイーゼの方が強硬派でフランスに対しては徹底抗戦を唱えました。ナポレオンから最後通牒が来た時もルイーゼが夫の尻を叩きロシアと同盟を結んで戦いを決断させます。
1806年、ナポレオンは南ドイツに20万の兵力を集めてプロイセンを威圧しました。この頃のプロイセン軍は18世紀世界最先端だったフリードリヒ大王時代の軍隊ではありません。伝統にすがりつくだけで旧式化し軍の首脳部には王族や門閥貴族が能力もなくただ地位だけで就任している現状でした。
ナポレオン率いるフランス軍が、ドイツとオーストリアを隔てるエルツ山脈とチューリンゲンの森、フランケンの森の南西に集結しているとの報告を受けたプロイセンでは作戦会議が紛糾します。チューリンゲンの森はなだらかな丘陵地帯でしたが、標高700mドイツ南北を隔てる分水嶺をなしていました。森は深くマインツ、ニュルンベルク方面からベルリンに抜けるには何本かの峠道があるのみでした。
兵站総監部第三旅団長(参謀本部次長にあたる)だったシャルンホルスト(1755年~1813年)は、「機動力に勝るフランス軍がチューリンゲンの森を越えてイエナに到達すれば、後はベルリンまで平野なので(防衛拠点もなく)勝ち目がない」と力説し、こちらからチューリンゲンの森を突破しフランス軍を奇襲すべきだと強硬に主張します。
しかし門閥貴族たちは、ナポレオンを恐れ「そんな事をすれば峠道でフランス軍に待ち伏せされ全滅する」と反対しました。平民出身のシャルンホルストは、無能な門閥貴族たちに絶望しつつも説得しましたが、恐怖観念に凝り固まっている門閥貴族の決意を覆すことはできませんでした。
結局、フランス軍が峠を越えてきたところを平野で待ち伏せし叩くという愚にもつかない作戦に決まりました。素人考えでも分かりますが、自然の障壁であるチューリンゲンの森を防衛拠点に利用しない愚策中の愚策だったのです。シャルンホルストは、質で勝るフランス軍に勝つにはこちらが先手先手を取り戦いの主導権を握るしかないと確信していましたが、このような有能な人材が軍の指揮権を握っていなかった事でもプロイセン軍がいかに旧態依然とした軍隊だったか理解できます。
プロイセン軍は15万を動員しリュヘルの右翼軍1万5千がフランクフルト方面から侵入が予想されるフランス第7軍団に備え、ブランシュバイク公指揮の中央軍(参謀長シャルンホルスト)7万はチューリンゲン森中央部に陣取り、ホーエンローエ侯の左翼軍5万はバイロイエ方面を警戒しました。また戦略総予備1万5千をマグデブルクに置きます。
1806年10月、ナポレオンは斥候の情報からプロイセン軍の布陣を知り軍の重心を東方バイロイト、ニュルンベルク、ウェルツブルク方面に移し、10月7日18万の主力を三縦隊に分けて一気に分水嶺を越えました。
プロイセン軍は、10月8日ようやくフランス軍の進行方向を知り慌てて中央のブランシュバイク軍と右翼のリュヘル軍が移動を開始しますがすでに手遅れでした。劣勢のプロイセン軍が先手先手を敵のフランス軍に取られたのですから勝敗は戦う前から明らかです。
10月12日、ナポレオンはプロイセン軍の動きを見ながらイエナに至ります。すでにザーレ河を渡河していたランヌ軍団を動かし正面のホーエンローエ軍を襲わせした。ホーエンローエ軍5万は簡単に撃破されランヌはザーレ川左岸高地の有利な地点を占領します。ダヴーとべルナドット軍団には敵左翼に向かうよう命じました。
こうして10月13日、イエナ会戦は開始されます。体勢的にはフランス軍有利でしたが、流石フリードリヒ大王以来の伝統を誇るプロイセン軍は頑強に抵抗します。さしものナポレオンも焦りの色を隠せませんでした。ナポレオンは、イエナ西北方に布陣するホーエンローエ軍を撃破することが勝利のカギと見て、13日夜敵軍の目の前のランドグラーフェンベルク高地(361m)に砲兵部隊を登らせ頭上から砲撃しようと考えます。ところが、山は険しく悪い事に雨まで降りだしたため移動は困難を極めました。ついに砲兵隊の将校から「不可能です」という声まで上がる始末。
この時です、ナポレオンの名言が飛び出したのは。
「我が辞書に不可能の文字はなし」
ナポレオンはランヌ軍団を動員し、急造の道を作らせ大砲にロープをくくりつけて強引に山頂まで移動させました。夜が明けると、ホーエンローエ軍は山頂にフランス軍砲兵部隊が陣取っている事を知り驚愕します。頭上から激しい砲撃を受けたホーエンローエ軍はひとたまりもなく潰走しました。こうなると他の方面で善戦していた部隊も包囲を恐れ後退、これが恐怖を誘い全面敗走に至ります。
一方、フランス軍最左翼を進んでいたダヴー軍団2万は14日、アウエルシュタットでブランシュバイク軍5万を捕捉、倍以上の敵に苦戦しながらもこれを撃破します。司令官ブランシュバイク公は重傷を負い、同行していた国王は退却を命じました。
この時ブランシュバイク軍が崩壊しなかったのは一人の人物がいたからでいた。47歳の老中隊長グナイゼナウです。この時はブリュッヘルの幕僚になっていましたが、敗戦で浮足立つプロイセン軍司令部にあって一人沈着冷静に退却部署、経路、補給、防御計画を立て実行します。彼がいなかったらプロイセンが敗戦から立ち直り復活する事はなかったかもしれません。
シャルンホルスト、グナイゼナウ、そしてのちに戦争論を記すクラウゼビッツもイエナの戦場に立っていました。彼ら世界史上でも通用する一流の人材が責任ある地位に就いていなかった事を見てもプロイセンの敗北は明らかだったと思います。
10月25日、ナポレオンのフランス軍先鋒は敗走するプロイセン軍を追い越すようにベルリンに入城。さらに東方に逃げたプロイセン軍主力はミュラの快速騎兵軍団に追わせます。10月28日ブレンツラウにおいてプロイセン軍主力降伏。リューベクに逃げたブリュッヘル軍も11月5日降伏しました。プロイセン救援のために東プロイセンまで進出していたロシア軍は、プロイセン主力の降伏を聞いて軍を返しました。
国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世は東プロイセンまで逃れさらに抵抗しますが、救援に向かったロシア軍が1807年6月フリートラントでナポレオン軍に敗れたため抵抗を断念。1807年7月7日、領土の半分を失い屈辱的講和を結ばされました。(チルジット条約)
王妃ルイーゼは、無能な王に代わって少しでも有利な条件で講和を結ぼうと努力しプロイセン国民の尊敬と賛美を受けます。彼女がいなかったらプロイセンは再生できなかったでしょう。ナポレオンに完敗したプロイセンは事実上国軍が壊滅します。しかしこれにより王族や門閥貴族は発言権を失い、シャルンホルスト、グナイゼナウなどが中心になって軍の改革を進めました。