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ナポレオン戦記Ⅴ  ロシア戦役1812年

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 アウステルリッツからイエナ会戦を中心とする前後数年間がナポレオンの絶頂期だったと言えます。領土自体は1812年ロシア遠征直前が最大でしたが、この頃すでにナポレオン帝国は陰りを見せ始めていました。
 
 最初のつまずきはスペインでした。国王カルロス4世は精神疾患で王妃マリア・ルイザと宰相ゴドイが実権を握っていました。そこへ王太子フェルナンドが加わりスペイン宮廷は血みどろの権力闘争を繰り返していたのです。ナポレオンは混乱するスペインを自国領に加えようと、1808年軍隊を送り当時傀儡のナポリ王だった実兄ジョゼフを強引にスペイン王位につけました。空席になったナポリ王にはナポレオンの宿将で妹婿でもあったミュラが即位します。
 
 抵抗するスペイン軍は、精鋭フランス軍の前に一蹴。スペインは完全にナポレオンの支配下に入ったかに見えました。ところが本当の戦いはこれからでした。スペイン国民は怒りゲリラ戦でフランス軍に対抗します。当時ポルトガルを属国としていたイギリスも、イベリア半島にアーサー・ウェルズリー(のちのウェリントン公爵)を送り込み半島情勢は収拾のつかない事態に陥ります。
 
 1808年12月ナポレオンが直接乗り込み一時的に情勢は安定したかに見えましたが、ナポレオンがイベリアを去ると元の黙阿弥でした。スペイン戦線にはマッセナスルト、ヴィクトールなど多くの宿将が投入されましたがゲリラ戦に対抗できず無駄な努力に終わります。1809年2月スペインにおけるフランス軍の苦戦を見たオーストリアは再びナポレオンに宣戦布告しました。オーストリア軍の最高司令官に就任したカール大公(皇帝フランツ1世の弟)率いる主力軍20万がバイエルンへ、イタリア半島にはヨハン大公率いる5万が、ポーランドにはフェルディナント大公の6万がそれぞれ向かいます。
 
 1809年5月、ここであろうことかナポレオン率いる7万3千のフランス軍が、カール大公の10万のオーストリア軍にアスペルン・エスリンクの戦いで敗北してしまうのです。ナポレオン直接指揮の軍隊が敗北したのはおそらく初めてでした。宿将ランヌもこの戦いで戦死します。常勝ナポレオン伝説に陰りが見えた象徴とも言える戦いでした。最終的には1809年7月のヴァグラム会戦でカール大公のオーストリア軍を破り再びオーストリアを屈服させますが、この事はナポレオンの生涯の大きなしこりとなります。
 
 自分の人生に陰りが見え始めた事を知ってか知らずか、ナポレオンは大陸封鎖令を発し宿敵イギリスを締め出す策に出ました。しかしイギリスとの貿易に頼っていたロシアはこれに反発、1810年イギリスと同盟して公然とナポレオンに敵対します。
 
 ナポレオンはロシアを屈服させる事を決意しました。ロシア遠征に先立ちナポレオンはロシアの宿敵オスマントルコに使者を送ります。フランスと同盟し、ロシアを南北から攻めようと云うのです。時のスルタン、マフムト2世はイェニチェリを廃止し軍の近代化を進めたスルタンとして有名ですが、国内外のあらゆる情勢を分析してナポレオンのフランス帝国絶対有利、ロシア完敗という情報を得ます。ところがマフムト2世は、フランスとの同盟を断り戦争中だったロシアと講和してしまったのです。この恐るべき慧眼はどうでしょう!彼はナポレオンの没落を予測していたのでしょうか?
 
 最初からつまずいたロシア遠征でしたが、1812年6月ナポレオンはフランス軍だけで45万、同盟軍を入れると70万という空前の大軍を率いてロシア国境を越えました。火砲も940門を数えます。一方、ロシアもオスマントルコとの戦争から解放された部隊を転用し、総勢40万と言われる軍隊を動員します。
 
 皇帝アレクサンドル1世は、この戦いをナポレオン戦争の天王山と覚悟していました。ロシアは全国民をあげて侵略者と戦います。ナポレオンは、最初アウステルリッツフリートラントの戦いぶりからロシア軍を舐めていたふしがあります。食料を2週間分しか準備していなかった事もその表れです。
 
 事実ロシア軍は精鋭フランス軍の前に連戦連敗で、6月26日には早くもダヴーの軍団がミンスクを落とします。ロシア西方司令官パグラチオン将軍とバルクライ将軍は要衝スモレンスクに兵力を集結し8月16日フランス軍に決戦を挑みました。しかしロシア軍はここでも敗れスモレンスクの街は炎上します。
 
 ロシア皇帝アレクサンドル1世は、ここに至って国民の圧倒的な支持を受けていたクツーゾフ将軍の復帰を認めざるを得ませんでした。アウステルリッツで関係の悪化していた両者でしたが背に腹は代えられない状況になっていたのです。クツーゾフはロシア全軍の最高司令官としてナポレオンと対峙することになります。
 
 1812年8月22日、モスクワ西方120kmにあるボロジノに布陣したクツーゾフ軍13万はフランス軍を待ちかまえます。ナポレオンも同数の13万を率いてボロジノに迫りました。ボロジノ会戦はフランス軍の死傷者5万以上、ロシア軍の死傷者4万4千と互いに甚大な被害を出しながらもナポレオンが辛勝します。しかしフランス軍にクツーゾフを追撃する余力は残っていませんでした。
 
 クツーゾフはモスクワ放棄という思い切った策に出ます。9月14日、ナポレオンはモスクワに入城しました。ロシア軍は、直接戦闘を避け攻めれば撤退し、引けば押し出すという戦法でフランス軍を苦しめます。フランス軍の進出する地域を焦土と化し現地調達を不可能にします。後方の補給線はロシア民衆のパルチザンが襲い、フランス軍は戦わずして消耗を続けました。所謂焦土戦術です。
 
 さらにモスクワは何者かが放った火によって炎上、フランス側はモスクワ総督ロストプチンが放火したと非難し、ロシア側はフランス軍の放火と主張しますが真相は謎です。モスクワの大火は物理的なものだけではなくフランス兵の精神も蝕みました。あれだけの精鋭を誇ったフランス兵の士気は完全に弛緩しモスクワ市内では略奪暴行が横行します。
 
 困り果てたナポレオンは、アレクサンドル1世に使者を送り講和を模索します。ところがアレクサンドルはこれに黙殺をもって答えました。そして、ついに恐れているものが到来しました。冬将軍です。補給の断たれたフランス兵は戦わずしてバタバタと倒れます。
 
 10月19日、ナポレオンはついにモスクワから撤退を決意。11月には本格的な冬将軍が襲いかかります。この機会を待っていたクツーゾフは追撃を命じました。ロシアのコサック騎兵は戦う気力も失ったフランス兵を襲い損害は鰻のぼりに増大します。ロシア農民のパルチザンも嵩にかかって攻めかけ、フランス大陸軍は戦病死者37万、捕虜20万という恐るべき損害を出しました。
 
 ナポレオンが無事にロシア国境を越えた時、わずか3万が付き従っていたにすぎませんでした。ついにナポレオンはロシアを屈服させることができなかったのです。
 
 
 ロシア遠征失敗の原因は古来様々言われています。
①ロシア軍撃滅よりもモスクワ占領を優先させたこと。
②侵攻時期が早すぎた事。少なくとも1813年雪解けを待って進軍すべきだった。
③ロシアの戦略的縦深は深すぎ70万程度では兵力不足だった事。
④兵力云々とは別に70万という大軍は当時の兵站能力では無理だった。
 
 ともかく、ロシア遠征の失敗はナポレオンの前途を暗いものにしました。それまで逼塞していたプロイセンオーストリアが再び蠢動を始めたのです。スペイン戦線も絶望的になっていました。
 
 破局は間もなく訪れようとしていました。次回諸国民戦争ライプチヒの戦いを描きます。