鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

ハプスブルク帝国Ⅷ  ナポレオン戦争

イメージ 1
 
 
 マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットが歴史的な外交革命で宿敵フランスの王太子ルイに嫁いだ事は前記事で述べました。ルイは、祖父ルイ15世の死去を受け1774年即位します。
 
 マリー・アントワネットの浪費癖が原因でフランス革命が起こったとされますが、私は関係はほとんどないと思います。といいますのもすでにルイ14世の時代からフランスは、スペイン、オランダ、イギリスと血みどろの戦争を続けたしかに領土は拡大しましたが、国民は重税にあえぎ生活も疲弊していました。後を継いだルイ15世も、内政に専念することなく7年戦争に介入するなど国家財政をより悪化させます。
 
 おそらく誰が国王でもフランス革命は避けられなかったと思います。調べてみるとルイ16世は無能ではありましたが好人物。マリー・アントワネットも頭が良いとはいえないただの浪費癖がある我がままな女性。市井に生まれればちょっと困った人だが愛すべき存在として生涯を終えたはずです。
 
 1792年フランス革命が起こった時、オーストリア皇帝はアントワネットの兄レオポルド2世(マリア・テレジアの三男)でした。最初レオポルドは隣国フランスには不介入の態度を示します。アントワネットと夫ルイ16世を亡命させてくれれば良しとしていたのです。
 
 ところがフランス革命政府はルイ16世夫妻をギロチンに架けて処刑してしまいます。激怒したレオポルドはプロイセンと結びフランスに宣戦布告しました。革命戦争は、しかしかえってフランス国内を団結させナポレオンという風雲児を台頭させます。
 
 レオポルド2世は1792年3月在位わずか2年で死去。後を長男フランツ2世(在位1792年~1835年)が継ぎました。対フランス革命介入戦争は、イギリスの首相小ピット提唱でイギリス、オーストリアプロイセン、ロシアの対仏大同盟へと発展します。
 
 ところが、まもなくプロイセンが国内事情から中立に転じたためオーストリアが陸戦の矢面に立たされることになりました。オーストリアとフランスは主に北イタリアでぶつかります。1796年フランスの若き将軍ナポレオン・ボナパルトに率いられたフランス軍が北イタリアに侵入。1800年マレンゴの戦いでオーストリア軍はナポレオンの前に一敗地に塗れます。1801年リュネヴィル条約でフランスのライン左岸領有を認めるなど良いところが全くありませんでした。
 
 
 ナポレオンは数々の戦勝を背景にフランス革命政府の権力を掌握、1799年ブリュメールのクーデターで第一統領に、1804年には国民の圧倒的支持を受けてついにフランス皇帝に即位しました。(在位1804年~1814年、1815年)
 
 1805年、対フランス戦の矢面に立たされ続けたオーストリアは首都ウィーンをフランス軍に占領されます。そして1805年12月2日史上名高いアウステルリッツ会戦が起こりました。この戦いはフランス皇帝ナポレオン1世オーストリア皇帝フランツ2世、ロシア皇帝アレクサンドル1世が一堂に会したため三帝会戦とも呼ばれます。ナポレオン率いるフランス軍7万5千、オーストリア・ロシア連合軍8万5千。真っ向からぶつかった戦いは、ナポレオンの指揮能力の高さでフランス軍が圧倒、連合軍は死傷者1万5千、捕虜2万を出すなど惨憺たる敗北を喫しました。
 
 アウステルリッツの敗戦でついにオーストリアは戦争から脱落、フランスと屈辱的な講和を結ばされます。この時が皇帝ナポレオンの絶頂期だったと思います。1806年ナポレオンは南部ドイツ諸州を独立させライン同盟を結成させます。フランスがその後押しをしたため、フランツ2世は布告して存在意義の無くなった神聖ローマ皇帝の称号を廃しました。これにより伝統ある神聖ローマ帝国は消滅します。以後、正式にオーストリア帝国と呼ばれる事となりました。
 
 
 絶望的状況のオーストリアでしたが、1809年外相としてメッテルニヒが登場します。メッテルニヒは、現在ナポレオンに敵対する事は不利だとして、彼の没落を冷静に待つ方針を固めました。ナポレオンは1806年10月イエナ会戦でプロイセンを破り、イギリスに対しては大陸封鎖令で締め出しを図ります。しかしナポレオンに反感を持つロシアのアレクサンドル1世は、逆にイギリスと結び敵対の構えを見せました。
 
 ナポレオンはロシアを屈服させるため1812年総兵力70万に及ぶ大軍を率いてロシア遠征を決行します。ロシアの老将クツーゾフは正面からフランス軍に当たらず焦土戦術でこれに対抗しました。こうなるとフランス軍は大軍だけに補給に困るようになります。8月26日ボロジノで大きな被害を出しながらフランス軍辛勝。モスクワに入城するも攻勢はここまででした。間もなく冬将軍が到来し、後方の占領地でもパルチザンが発生し補給は絶望的になってきました。
 
 ナポレオンはついに撤退を決断します。この時を待っていたクツーゾフは追撃を開始、ナポレオンがロシア国境を越えた時あれほど大軍を誇ったフランス軍はわずか3万に激減していました。
 
 常勝ナポレオンの敗北は、それまでナポレオンに苦しめられていた各国を勢いづかせます。まずプロイセンが1813年3月フランスに宣戦布告。8月にはイギリス、オーストリア、ロシア、スウェーデンがこれに加わり第6回対仏大同盟が結ばれました。1813年10月、諸国民の戦いと云われたライプチヒの戦いが勃発。ここで19万のフランス軍は、オーストリアプロイセン、ロシア、スウェーデンの連合軍36万の前に敗北します。
 
 1814年にはウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー率いるイギリス軍もフランス国内に侵入し、3月31日連合軍はパリに入城しました。こうなるとついにナポレオンも諦め4月6日退位を表明します。ナポレオンは連合国によってイタリア半島コルシカ島の間にある小さな島エルバ島に追放されました。
 
 
 1815年9月、連合国はナポレオン戦争後の国際秩序を決めるためウィーンに終結します。所謂ウィーン会議です。ナポレオンはこのままエルバ島で朽ち果ててしまうのでしょうか?いや、そうではありません。歴史はもう一度繰り返しました。
 
 
 次回はナポレオン奇跡の復活とワーテルロー会戦、ウィーン体制後のオーストリア帝国を描きます。