鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

ハプスブルク帝国Ⅹ  ハプスブルク帝国の最期

イメージ 1
 
イメージ 2
 
 
 オーストリアハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年~1916年)は、最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝としてはフランツ1世)の孫にあたります。叔父フェルディナント1世(フランツ2世の長男)が3月革命で退位したため皇帝となりました。
 
 ちなみに退位後のフェルディナントは、病弱で健康を危ぶまれましたがなんとその後27年間も生き1875年82歳の長命で亡くなります。
 
 フランツ・ヨーゼフ1世は即位したときまだ18歳でした。斜陽の帝国を支えるには知識も経験も不足していたのです。しかし彼は幾度かの危機を乗り切り無難に統治しました。ところが彼を襲ったのは外患だけではありませんでした。
 
 まず弟マクシミリアンがフランスのナポレオン3世の口車に乗せられメキシコ皇帝に即位。間もなく勃発したメキシコ革命で1867年処刑されてしまいます。次に最愛の嫡子ルドルフが1889年政略結婚を嫌い下級貴族(男爵)の娘と心中。悪い事は重なるもので今度は皇后エリザベートが1898年無政府主義者の凶刃に倒れました。
 
 家庭の不幸は老皇帝の心を痛めたと思います。ルドルフ亡きあと甥のフランツ・フェルディナント大公が皇位継承者と定められました。
 
 時代は宰相ビスマルクからドイツ皇帝ウィルヘルム2世のドイツを中心に動き始めます。人口的にも工業力も経済力でもドイツ帝国オーストリアを凌駕し、国際政治上の発言力も逆転していました。
 
 そのウィルヘルム2世は、太陽の没せぬ帝国イギリスの海上権に挑戦し大建艦競争を仕掛けます。イギリスはこれに対抗しフランス、ロシアと三国協商を結びドイツの封じ込めを図りました。かつてビスマルクはドイツの孤立を恐れロシアとの接近を図っていましたが、その失脚後自己の野望で冷静な判断ができなくなったドイツ皇帝は自ら孤立の道を突き進んだのです。
 
 ドイツは、孤立を避けるためオーストリア、イタリアを誘って三国同盟を結びますがチロルなど未回収のイタリア問題で対立したイタリアは、英仏の誘いを受け寝返りました。ドイツは、さらにブルガリアオスマントルコと同盟を結びます。
 
 当時のバルカン半島は民族問題が噴出し世界の火薬庫と呼ばれていました。オーストリア領のクロアチアボスニア・ヘルツェゴビナでもロシアに扇動され南スラブ族が独立の機会を虎視眈々と狙っていました。各地でテロが横行し治安は最悪になります。
 
 そんな中1914年、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント夫妻はボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボを訪問します。皇太子自身は開明的である程度の民族自治も認めようという考えだったらしいのですが、セルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されてしまいました。
 
 激怒したオーストリアセルビアに宣戦布告。これに英独仏露伊など各国が参戦し第一次世界大戦が勃発します。オーストリア帝国は領内に多くのスラブ人を抱え民族的団結力に欠けていました。バルカン半島ではスラブ系民族が独立を画策しそれをロシアが後押ししていたのです。オーストリアはこの東方問題に悩まされます。
 
 戦争は東方問題解決という側面もありました。ところがオーストリア軍は劣勢で、南部戦線で苦戦します。ドイツ軍の援助を受けてようやく撃退する状態でした。一方北イタリア戦線ではさらに弱いイタリア軍に対して優位に戦いを進めます。
 
 しかしこれらの戦線はあくまで脇役にすぎませんでした。戦争の主役はドイツと英仏がまともにぶつかった西部戦線、そしてドイツとロシアが戦った東部戦線です。そしていくらドイツ軍が精強と言えど限界がありました。同盟軍側は次第に押し込まれていきます。
 
 1916年、老皇帝フランツ・ヨーゼフは戦争の行く末を案じながら崩御。死因は肺炎だったと伝えられています。享年86歳。
 
 後を継いだのはハプスブルク帝国最後の皇帝カール1世でした。彼はフランツ・ヨーゼフ皇帝の甥の子にあたります(在位1916年~1918年)。
 
 
 戦争は1917年アメリカの参戦によりますます同盟側に不利になりました。戦争勝利のためにはドイツが西部戦線でパリを占領する必要があります。しかし戦線は膠着し、旗色の悪い同盟側で厭戦気分が蔓延しました。戦争の行く末に絶望したカールは連合国(協商国を中心にほとんど全世界が参加)との単独講和を図りますが、これは失敗し返ってドイツの不信を招く結果となりました。
 
 1918年、戦線が崩壊していく中チェコスロバキアポーランドハンガリーが次々と離反、独立を宣言します。帝国は解体し、1918年11月無条件降伏しました。カール1世はシェーンブルン宮殿青磁の間で退位宣言します。
 
 これにより700年の歴史を誇るハプスブルク帝国は滅亡。カールはポルトガルマデイラ島に亡命、1922年肺炎のため死去しました。享年35歳。
 
 
 
 
 やはり近代国民国家時代に入って多民族国家の帝国を維持するのは困難だったのだと思います。あらゆる矛盾を抱えていた帝国は戦争という劇薬によって終焉を迎えたのです。しかし、幾度もの危機を乗り越えルドルフ1世から始まる700年もの帝国を維持できたという事は、それだけで世界史上の奇跡だったとも言えるでしょう。