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デンマーク王クリスチャン4世   - シリーズ『ドイツ30年戦争』② -

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 一般のイメージとは違い30年戦争は常に戦闘状態にあったのではありません。間に数か月~数年のブランクを挟んで断続的に続きます。プロテスタントカトリックの宗教対立を発端としてドイツを中心に西ヨーロッパの主要国を巻き込んだ大戦争というのが30年戦争でした。


 前稿で、お調子者の(失礼)プファルツ選帝侯フリードリヒ5世が大戦争のきっかけを作ったという事を書きました。ならばその傷口を広げ、のっぴきならない状況に追い込んだ人物こそ、これから紹介するデンマーク王クリスチャン4世です。


 クリスチャン4世はデンマーク史上ではなかなかの名君とされます。世界史の教科書でも劣勢に陥ったプロテスタント勢力を擁護するため参戦した、と紹介されることが多いです。


 しかし考えてみてください。そんな甘っちょろい事で国際政治が動くのなら戦争など起こるはずもありません。クリスチャン4世の場合もプロテスタントの擁護という大義名分のもと、自国の利益のためだけに行動したのです。

 デンマーク王クリスチャン4世は、ドイツ帝国内の一領邦ホルシュタイン侯(ユトラント半島の付け根あたり)も兼ねていました。ということは神聖ローマ帝国に介入できる名分はあったのです。


 1625年、クリスチャン4世は帝国内の十の行政区の一つニーダー(低地)ザクセン区(中心都市はハノーヴァー)の区長に任命されました。区長は行政区の中で自由な募兵特権が与えられます。これだけで満足しておけば良いものの、彼はこの地位を利用して自分の息子たちに空位になっていたハルバーシュタット、オスナブリュック司教の地位を得ようと画策します。しかしさすがにこれは皇帝フェルディナント2世によって拒否されました。


 怒ったクリスチャン4世は、帝国内の宗教対立から起こった内戦に介入することとなります。これは内戦に介入することを検討していたライバル、スウェーデングスタフ・アドルフに先駆けた単独介入でした。


 ここで疑問に思うのは、小国であるデンマークがなぜ介入できたか?です。その秘密はスウェーデンの場合もそうですが、神聖ローマ帝国の衰退を画策する英仏の莫大な軍事援助が裏で行われていたのです。

 とくにフランスは東西をスペイン、オーストリアの両ハプスブルグ家に抑えられています。直接の軍事介入こそしないもののお金で敵の勢力を弱められる事には積極的でした。


 1625年5月、クリスチャン4世は2万5千のデンマーク軍を率いて南下します。初めは順調に進軍していたクリスチャン4世ですが、1626年ルッターの戦いで帝国軍の名将ティリー伯の軍の前に一敗地に塗れます。

 さらに1627年には、帝国側の傭兵隊長ヴァレンシュタインに押しまくられデンマーク公領とユトラント半島全土を占領される始末でした。

 困り果てたクリスチャン4世は、1628年嫌っていたスウェーデングスタフ・アドルフと渋々の同盟を締結。スウェーデン軍の援助によってようやくヴァレンシュタイン軍を撃退します。


 これで懲りたのか、1629年皇帝フェルディナント2世と「リューベックの和約」を締結。30年戦争から手を引くこととなるのです。


 デンマーク王クリスチャン4世の介入は30年戦争の主役、グスタフ・アドルフヴァレンシュタインの引き立て役にすぎませんでした。一種の幕間劇です。ただし、彼の介入戦争によってボヘミアとプファルツに限定されていた戦争がドイツ全土に広がるきっかけになったとも言えます。


 個人的な欲望によってドイツ全土を荒廃させる戦争に発展させたのですから、デンマークにとっては名君であったとしても、世界史的には暗君と評価されても仕方ないのでしょう。