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アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン   - シリーズ『ドイツ30年戦争』④完結編 -

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 1632年レヒ川の戦いで頼みの綱の総司令官ティリー伯を失った皇帝軍はパニックの極にありました。他に有能な指揮官のいない皇帝軍は、ある一人の男だけが頼りでした。彼の名はヴァレンシュタインボヘミアの小貴族出身で一時は12万もの傭兵を支配下に置いた大傭兵隊長です。


 アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン( 1583年~1634年)は、ボヘミアの貧乏貴族の家に生まれました。平和な時なら平凡な一生を送ったに違いありません。

 が、世は乱世です。彼に運が向いてきたのは金持ちの未亡人と結婚したことでした。その金を元手に高利貸しをしながら蓄財に励みます。そしてボヘミアで反乱が起こると私財をなげうって兵を集め挙兵します。

 ヴァレンシュタインの傭兵軍にはすぐ雇い主が現れました。神聖ローマ皇帝フェルディナント2世です。皇帝家の台所事情が苦しいという事は前に書きました。皇帝にとってヴァレンシュタインの傭兵軍は非常に助かる存在でした。なぜかといえば、ほとんど資金が要らないからです。

 その秘密は、ヴァレンシュタインが皇帝に申し出た契約でした。皇帝は傭兵軍に資金を出す必要がありません。その代わりに占領地に軍税というものを徴収する権利を得ました。

 軍税とは合法的な略奪です。皇帝がそれを認めているのですから民衆はどこにも不満の持って行きどころがありませんでした。軍隊による直接の税徴収、これは兵士たちにとっても大変魅力のあるものです。非合法な略奪と違い組織的に町々を回りあらゆる食料、物資、金品を集めて自分のものにできるのですからこれほど良い事はありません。


 ヴァレンシュタインの傭兵軍は人気となり、一時は12万5千を超える大軍に膨れ上がりました。

 一方、ヴァレンシュタインの傭兵軍の行くところはことごとく荒廃しました。根こそぎ持って行かれ餓死者すら出たくらいです。30年戦争の惨禍の原因の一つはこういった傭兵軍による略奪によるものでした。



 ヴァレンシュタインは雪だるまのように膨れ上がる傭兵軍を使って軍功をあげ、ついにはフリートラント侯という貴族にまで登りつめます。


 しかし同時にそれはヴァレンシュタインに慢心を起こしました。皇帝に雇われるのではなく独立採算制の傭兵軍つまり自分の私兵という驕りもあったのでしょう。

 いつしか彼は選帝侯になることを望み始めます。ところがこれにはプロテスタント諸侯だけではなく、皇帝側のカトリック諸侯の間でも反発を受けます。


 成り上がりの貧乏貴族が、自分たちの上に立つことに我慢ならなかったのです。新教旧教に関係なく選帝侯連名でヴァレンシュタイン弾劾の要求を皇帝に突きつけます。皇帝もまた言う事を聞かなくなったヴァレンシュタインを苦々しく思っていましたから、要求を受け入れ彼を罷免しました。



 皇帝はヴァレンシュタインに窮状を訴え再出馬を迫ります。最初は渋ったヴァレンシュタインでしたが、彼に全権を与えるとの皇帝の言葉に動かされ、1632年再び表舞台に立ちました。



 一方、プロテスタント連合軍の頂点にたったスウェーデングスタフ・アドルフも慢心の極に立っていました。当時の彼の手紙には自らを神聖ローマ皇帝になぞらえたものが残されています。


 こういった態度は、今まで協力的だったプロテスタント諸侯の反発をくらいこちらも人心が次第に離れていきました。


 両軍は1632年11月16日、ライプツィヒ郊外のリュッツェンで激突します。両軍の兵力はヴァレンシュタイン側が2万6千、スウェーデン軍は1万6千。


 ただし皇帝軍は数の多さに驕って兵力を二分していました。結局これが敗因になります。ヴァレンシュタインにかってのような軍略の冴えがなくなっていたのが敗因と見る向きもあります。


 ともかく劣勢なスウェーデン軍は、グスタフ・アドルフの指揮能力の高さもあってこのときも皇帝軍を圧倒しました。ところがこのとき信じられない悲劇が起こります。


 濃霧の中、国王グスタフ・アドルフが道に迷い流れ弾に当たって戦死したのです。享年37歳。これで戦争の行方はさらに混沌としたものになりました。


 スウェーデン軍の指揮は宰相のウクセンシェルナに引き継がれます。彼は国王のドイツ征服という野望を諦め、安全に撤退しかつ有利に講和できるための態勢作りに全力を挙げることにしました。


 皮肉なことにグスタフ・アドルフの死はヴァレンシュタインの存在価値さえ失わせました。一説では単独講和を結ぼうとした越権行為に激怒し、皇帝フェルディナント2世が暗殺団を送ったともいわれています。

 またこのときヴァレンシュタインのもとに、影の大ボスともいうべきフランスの宰相リシュリューの調略の手が伸びていました。リシュリューボヘミア王にするという条件で寝返りを勧めます。しかしこれは成功しても失敗してもどちらでも良かったのです。

 ヴァレンシュタインと皇帝との間に疑心暗鬼を生じさせるだけで十分でした。メクレンブルク公に出世し選帝侯も手が届く位置にいたヴァレンシュタインがあまりにも巨大な存在になりすぎていたのです。


 1634年、皇帝の送り込んだ刺客の手にかかりヴァレンシュタイン絶命。享年51歳。



 中世から近世にかけてヨーロッパをまたにかけて活躍した傭兵軍の最後の輝きでした。以後ヨーロッパ世界はフランス革命を経て市民による徴兵軍に変わっていきます。



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 最後にその後の30年戦争について簡単に触れましょう。


 皇帝率いるカトリック軍と、プロテスタント軍という単純な区別は次第になくなっていきました。なぜならカトリック教国であるフランスが反ハプスブルクの旗幟を鮮明にして本格的に参戦してきたからです。

 ドイツ国内でもブランデンブルクザクセン両選帝侯を軸にどちらにも加わらない第3の勢力が生まれました。皇帝側のバイエルンもこれに協調する動きを見せます。


 そして1637年、皇帝フェルディナント2世が死去します。あとを継いだフェルディナント3世も戦い続けますが、人々は戦乱の世に倦んでいました。その後もいくつかの戦闘がありましたが、それは講和会議で自分の立場を有利にするためのものでしかありませんでした。


 1648年、ウェストファリア(ヴェストファーレン)条約締結。30年にもわたった泥沼の戦争が終わりました。この戦争は事実上神聖ローマ帝国を解体した戦争でした。ハプスブルク家はそれぞれオーストリアとスペイン本領の経営だけに気を配るようになりました。

 かわってフランス、オランダ、イギリスが台頭してきます。ドイツ国内でもブランデンブルク選帝侯が力をつけプロイセン王国として生まれ変わりました。


 史家の間では、ハプスブルク家がドイツを絶対王政国家に改造しようとして失敗した戦争だったと評価する者もいます。


 出遅れた国家統一は、1871年新興の軍事強国プロイセンによってようやく達成されました。