17世紀までスカンジナビアで最強の国は意外な事にデンマークでした。過去記事「中世ヨーロッパ外伝」でも記したスキョル朝クヌート大王の北海帝国然り、14世紀後半のカルマル同盟でもスカンジナビア三国の主導的地位を占めたのはデンマークだったのです。グリーンランド、アイスランドはもとよりバルト海沿岸諸国にも進出し広大な領土を誇っていました。
その強国デンマークが転落し始めたのは30年戦争のクリスティアン4世時代からでした。プロテスタントの擁護者として颯爽と参戦したクリスティアン4世は、ルッターの戦いで神聖ローマ帝国側の名将ティリー伯の前に一敗地に塗れ帝国軍に本土ユトランド半島まで占領されるという醜態を晒します。
代わって登場したのは、スウェーデン王グスタフ2世アドルフでした。アドルフがあまりにも名将だったためデンマークがそれまで築き上げた地位は雲散霧消しスウェーデンが新たなスカンジナビアの覇者として台頭します。
その後幾度かの戦争を経て1697年カール12世(1682年~1718年)が即位した時には、スウェーデン・フィンランド・西ポメラニア(ドイツ北部)・エストニア・リヴォニア(現ラトビア北半分)を領土とする一大帝国が出現していました。これを歴史上バルト帝国と呼びます。
当然この状況を面白く思わない国々がいます。その筆頭はかつての栄華を奪われたデンマークでした。デンマーク王フレデリック4世(在位1699年~1730年)は、バルト海進出を悲願としていたロシアのピョートル1世(大帝、在位1682年~1725年)、同じくドイツ・バルト海南岸からスウェーデン勢力を叩き出したいザクセン選帝侯・ポーランド王(兼任、ポーランド・リトアニア同君連合の王としては在位1697年~1733年)と語らい対スウェーデン三国同盟を結びます。(1699年)
連合軍はわずか14歳で即位したカール12世を少年と侮り、1700年デンマーク王フレデリック4世がカール12世の義兄にあたるホルシュタイン・ゴットルプ公フリードリヒ4世に宣戦布告、同時にロシア軍はスウェーデン領イングリアに、ザクセン軍が同じくリヴォニアに侵入しました。これを大北方戦争と呼びます。
即位して3年目わずか17歳のカール12世は、この未曽有の危機にどのように対処したのでしょうか?後編ではカール12世の戦いとその短い生涯を描きます。