ヨハン・セルクラエス・グラーフ・フォン・ティリー( 1559年~1632年)は、バイエルン公マクシミリアン1世に仕えた将軍です。彼がなぜ神聖ローマ帝国軍の総司令官になったかといえば、帝国内部の複雑な事情がありました。
神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は、すべての帝国領を専制的に支配していたわけではありません。ハプスブルグ家直轄領以外は多くの諸侯によって分割統治されていました。帝国とはいえそれら諸侯に対しては緩やかな支配しか及びません。ましてやプロテスタントとカトリックの宗教対立まであるのですから、皇帝が自由に動かせるのは自分の直轄領の軍隊しかいませんでした。
ところがハプスブルグ家のドル箱ともいうべきボヘミア地方が最初の戦闘で荒廃し、皇帝はない袖は振れない状態に陥っていました。こうした状況がのちの傭兵隊長ヴァレンシュタイン台頭の遠因ともなります。
バイエルン公は、この内戦で皇帝に恩を売ることで帝国内での地位向上、つまりは選帝侯位を狙って全面協力を申し出ます。
渡りに船とばかりフェルディナント2世はこれに飛びつきます。軍隊も実質バイエルン軍主体でしたから、その総司令官ティリー伯に全帝国軍の総指揮権まで与えてしまいました。
ティリー伯は有能な軍事指揮官でした。当時主流になりつつあったスペイン発祥のテルシオ戦術(槍兵の方陣の四隅にマスケット銃隊を配した陣形。防御力に優れていた)を使いこなし、1620年ボヘミア冬王フリードリヒ5世の軍を白山の戦いで撃破します。
1621年には、プファルツ侵攻作戦に従事し完全に制圧します。この軍功を喜んだ皇帝フェルディナント2世は、フリードリヒ5世からプファルツ選帝侯位を剥奪しティリー伯の主君バイエルン公に与えました。
1625年にはヴァレンシュタインの傭兵軍と協力して新教軍をあと一歩まで追い詰めます。
しかしティリー伯の絶頂期はここまででした。主君のバイエルン公の動きが怪しくなってくるのです。バイエルン公マクシミリアン1世はこのまま皇帝軍が勝ち続けると、帝国貴族は完全に皇帝に抑えられてしまうという危惧から、ひそかに新教側のプランデンブルグ、ザクセンの両選帝侯と共闘の動きを見せ始めました。
こうなるとティリー伯の立場は危うくなります。しかし「甲冑をまとった修道士」とまでいわれた謹厳実直な彼は、ただひたすら自分に与えられた任務だけを真面目に遂行していきます。
ティリー伯は敬虔なカトリック信徒でした。新教徒を滅ぼすことが神の御心にかなうと信じ、プロテスタントを憎みぬきました。これは戦闘をするときは力になりますが、反面大きな弊害ともなります。
1630年スウェーデンのグスタフ・アドルフが参戦すると、ティリー伯はスウェーデンに味方したハンザ同盟の都市マクデブルクを包囲します。包囲は半年に及び、1631年5月20日ついに陥落しました。
ティリー伯は、兵士が町になだれ込み略奪暴行の限りを尽くしてもなにもしませんでした。彼の考えでは異端(プロテスタントのこと)はどうなろうと構わないという思いがあったのでしょう。
3日3晩の劫掠で3万人の市民のうち生き残ったのは5千人。しかもそれは大半が兵士に捕えられた女性で、性的陵辱の対象となるという凄まじさでした。
のちに「マクデブルクの惨劇」と呼ばれるようになる事件のダメージは深刻でした。これによってプロテスタントの憎悪は頂点に達し、スウェーデン軍を解放者として積極的に支援するようになります。
結局はこれが皇帝軍を苦しめ、ティリー伯戦死の遠因になるのですから影響は大きなものとなりました。
1631年9月17日、ライプツィヒ北方ブライテンフェルトで両軍は激突します。兵力はティリー伯率いる皇帝軍が騎兵1万、歩兵3万。一方スウェーデン・ザクセン連合軍は国王グスタフ・アドルフに率いられ兵力約4万。
グスタフ・アドルフには秘策がありました。ネーデルラントでテルシオ戦術に対抗するために編み出されたネーデルラント総督ナッサウ伯マウリッツの「オランダ式大隊」をさらに改良した、所謂「スウェーデン式大隊」です。これは簡単に言うと「槍兵方陣の後方に銃兵方陣を置き、さらに後方に予備の銃兵方陣を置くというもの」(ウィキペディアより)で、テルシオの欠点である鈍重さを衝いた機動性に富む編成でした。
さらにグスタフ・アドルフは軽量の連隊砲を採用し、騎兵の武器をマスケット騎兵銃からサーベルに戻しました。これは騎兵を攻撃ではなく、止めの追撃に使用するための改編です。
このときのスウェーデン軍の編成は、時代を超越した近代的な編成でした。マスケット銃を防御ではなく攻撃に使用し、漸進斉射戦術という後方の銃隊を交互に前進させ射撃させる戦術で発射速度は実にテルシオの3倍!
戦闘は7時間にわたって繰り広げられました。結果は、兵力は両軍互角ながら火力で圧倒したスウェーデン・ザクセン連合軍の圧勝に終わります。
それまで一世を風靡したテルシオ戦術は、より近代的な戦術によって滅び去ったのです。
皇帝軍の戦死者1万5千。一方スウェーデン軍の戦死者はわずか1500。ティリー伯も首と胴に傷を負い、右腕は粉々に破壊されます。
ブライテンフェルトの戦いは、30年戦争でプロテスタント軍の初めての勝利でした。グスタフ・アドルフは英雄になりドイツ国内で8万の大軍を動かすようになりました。
そして1632年4月15日、敗残の身を本領バイエルンに後退させたティリー軍を追って勢いづくスウェーデン軍は再びティリー軍を捕捉します。
レヒ川の戦いがティリー伯にとって最後の戦いでした。戦闘序盤に砲撃を受けて負傷、ティリーは後方に運ばれます。指揮を引き継いだ将校も負傷し、指揮系統の乱れたティリー軍はそのままスウェーデン軍に押し切られました。
ティリー伯はインゴルシュタットに運ばれます。が、回復の見込みはありませんでした。病床でティリー伯は皇帝に手紙を書きます。当時失脚していたヴァレンシュタイン以外にこの難局を挽回できるものはいないとして、彼の復帰を願う手紙でした。さらにヴァレンシュタイン本人にも「幸運を祈る」という手紙を出します。
4月30日死去。享年74歳。
それは一人の名将の死とともに、テルシオ戦術の終わりでもありました。