
最初はジュチ・ウルスの後継国家がどのように滅んだのかという疑問から始まり、次に滅ぼしたロシア軍の近衛銃兵隊ストレリツィを調べ、ではロシア軍の基本戦術は何だったかという事に興味が移りました。ところがロシア軍に関しては資料がなく全く分からず、欧州の流行だったテルシオ戦術、オランダ式大隊、スウェーデン式大隊を周回遅れで採用したのではないかと推測するに至りました。なぜなら、画期的な戦術なら記述に残っているだろうし、ポーランド・リトアニア連合やスウェーデンにあれほど見事な惨敗は喫しないだろうと思ったからです。
特に北方戦争時代のカール12世率いるスウェーデン軍(おそらくグスタフ2世アドルフ時代のスウェーデン式大隊の発展形を指揮していたと思われる)に大敗したナルヴァの戦い(1700年)をみると強く感じます。この時スウェーデン軍はわずか8千、一方ロシア軍は4万。猛吹雪の中カール12世の奇襲を受けたとはいえ、戦術でも士気の上でも全く比較にならなかったのでしょう。でなければこれほどの惨敗は説明できません。
一方、ロシア軍は遊牧騎馬民族に対しては鬼のような強さを発揮しました。クリミア汗国が長く抵抗しただろうという反論もあるでしょうが、クリミアの背後にあったのは宗主国オスマントルコ。そしてオスマン帝国の主力もマスケット銃を主武器とした常備歩兵軍団イェニチェリでした。オスマン帝国がクリミア半島にイェニチェリを派遣したのか、それともそれに準じた軍隊をクリミア汗国に組織させたのかは不明ですが、すくなくともクリミア軍が単純な騎兵だけの軍隊ではなかったのは間違いないでしょう。
ここで中世から近世にかけて、マスケット銃を主力とした歩兵陣形がどのように発展したかを見るのも無駄ではないと思います。まずは一世を風靡したスペインの『テルシオ戦術』。テルシオに関しては過去記事で詳しく書いたので、ここではそのコピペ(手抜きで失礼!)でご勘弁ください。
『テルシオは、15世紀末のイタリア戦争でその原型が作られたと言います。パイク(長槍)兵の密集陣形を組み、その周囲を投射兵で固めたものです。最初は弩や弓が主力でしたが、マスケット銃が普及してくるとテルシオはさらに防御力を増します。遠距離の敵にはマスケット銃、接近してくればパイクと当時としては手に負えない陣形でした。スペイン軍はテルシオの改良を重ね、マスケット銃兵の比率も増え続けます。1525年北イタリアでフランス軍を破ったパヴィアの戦いはテルシオの猛威を示したものとして有名です。
テルシオは1500名から3000名で形成されます。中央のパイク兵は縦深20列から30列の方陣を組み、周囲を2列のマスケット兵が囲みます。弱点である四隅はマスケット兵を縦深4列から6列と組み厚くしました。スペイン軍はこのテルシオを何組もつくり野戦に挑みます。
テルシオに正面攻撃するのは自殺行為。といってテルシオとテルシオの間を抜け陣形を乱そうとしても互いのテルシオは援護射撃できる距離で展開しましたから複数のテルシオから猛射をくらいました。さながら第2次大戦時におけるソ連のパック・フロント(ソ連式対戦車縦深陣地)に突っ込むようなものだったのです。』
その次のオラニエ・ナッサウ公マウリッツの考案した『オランダ式大隊』に関しても手抜きコピペで御免なさい。

マウリッツは、テルシオを研究しテルシオがパイク兵とマスケット兵の比率2:1だったのに対しその比率を逆転させ1:1.2とします。スペインのテルシオより小さい定数550名の大隊を基本編制とし、パイク兵の方陣もテルシオより少ない10列の縦深。その両翼あるいは後方に同じく10列のマスケット兵縦深を配しました。さらにマスケット銃を間断なく発射するため横の間隔を人ひとりが通り抜けられるほど広く取り先頭のマスケット兵が発射すればすぐ方陣の最後尾に走って弾を込め、二番目、三番目と次々と発射していくというものでした。10列目が発射する頃には先頭のマスケット兵は弾込めが終わっているので、理論上間断なく弾丸を発射できます。
これを背面行進(カウンターマーチ)と呼びますが、中々現実は厳しいものです。下手したら部隊が団子状になり混乱してしまいます。マウリッツは、背面行進を実用化するためマスケット兵の動作の一つ一つをマニュアル化し厳しい訓練を科しました。』

3番目にくるのが、有名なグスタフ2世アドルフの『スウェーデン式大隊』です。オランダ式大隊をさらに発展させました。基本単位は定数150名から成る中隊で、士官16名、パイク兵54名、マスケット銃兵72名、事務員8名で構成されます。行政上の管理単位としては8個中隊で1個連隊。ただし実戦では数個中隊を組み合わせて大隊とし、大隊をいくつか組み合わせて旅団を編成しました。
スウェーデン式大隊の特長は、オランダ式が背面後進だったのに対し漸進斉射戦術を採用した事です。どういうことかというと、戦列最前線のマスケット銃兵が一斉射撃すると背後に回るのでなくその場で留まり装填。最後尾の銃兵が最前列に回って射撃。これを繰り返し前へ前へと進みます。こうして間断なく射撃をしながら前進しました。これは大変勇気がいることで、猛訓練しなければなりません。
スウェーデン式大隊の基本陣形は、パイク兵を前列に並べ、背後にマスケット銃兵を数隊置きます。パイク兵が戦列を支えている間に、背後のマスケット銃兵隊が両翼あるいは片翼から進撃し敵戦列に猛射を加え陣形を崩すというものでした。
グスタフ2世アドルフは、騎兵・砲兵にも改良を加え騎兵は抜刀突撃戦術を、砲兵には連隊砲という野戦で使える機動性重視の大砲を採用し主力であるマスケット銃兵の支援をします。この騎兵、歩兵、砲兵を組み合わせる戦術は近代戦術の萌芽とも言えました。これを三兵戦術と呼びます。
30年戦争では、スウェーデン式大隊が猛威を振るい、さしものスペインも伝統のテルシオ戦術を廃止し、スペイン方陣にスウェーデン式大隊を組み合わせた新陣形を作らざるを得なくなります。1635年の事です。18世紀になるとフランスがスウェーデン式の三兵戦術を発展させ、戦列歩兵と騎兵、砲兵からなる師団というものを登場させます。師団は7年戦争時代フランスのブロイ公爵ヴィクトル・フランソワが最初に編成したと言われます。
この頃、銃剣が普及しパイク兵は衰退ました。マスケット銃兵は遠距離では銃撃、近距離では銃剣による白兵戦とより柔軟な運用ができるようになります。スペイン継承戦争(1701年~1714年)のころには、パイク兵は完全に消滅していたそうです。
そして19世紀中ごろ、銃身のライフリング、椎の実弾と薬莢、元込め式発射機構と次々と新技術が登場し歩兵の使用するライフルはますます発展します。発射速度が飛躍的に上がった事で、戦列歩兵はよい的になる事から、歩兵陣形は密集を避け散兵による浸透戦術が主流になり現在に至りました。