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中東地域の戦術の歴史

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 最近、世界史書庫では延々と遊牧民族話を書いていますが、これはイスラム世界最後の世界帝国オスマン朝の歴史を描くための前準備だとお思いください。その前にイランの歴史で書き残したサファヴィー朝アフシャール朝を紹介します。すでにササン朝までとカージャール朝からイラン革命までの歴史は書きました。

 なぜサファヴィー朝アフシャール朝を抜かしたかというと、イスラム勢力の侵入からカージャール朝成立までのイランは、国家的纏まりというより中東の大きな歴史の流れの中で語るべきだと考えたからです。ゆえに、前記事で初めてサファヴィー朝の前段階である黒羊(カラコユンル)朝、白羊(アクコユンル)朝の歴史を書いたわけです。

 さて今回は戦術の話。ここでいう中東の概念は西はイランから東はエジプト、北はシリア、南はアラビア半島(その辺縁部を含む)とします。遊牧民族の最初の形態が成立したのはこの中東の周辺部だったと思います。なぜなら農耕社会なくして遊牧社会は成立しないから。そしてシリアは世界最初の農耕の発祥地。なんと1万1千年前だそうです。集落の形成もその頃。

 一方、遊牧という形態で歴史上確認される最古のものはキンメリア人で紀元前8世紀頃。活動地域はウクライナ平原。もちろんそれ以前から遊牧生活はあったと思いますが、それでも紀元前1000年前後だったと思います。世界最初の文明の一つメソポタミア地域では軍隊も組織されましたが、それは歩兵中心でした。馬はあったものの直接騎乗するのではなく馬車を引かせて、その上で戦闘します。

 ですから、農耕文明社会では周辺の遊牧民の侵入に悩まされました。マスケット銃と大砲の出現前、騎兵の歩兵に対する優越は絶対的でした。機動力で大きく勝り不利になればさっさと逃げられます。一方歩兵が騎兵に対抗するには城砦に籠城するか、守りを固めて弩などの投射兵器でアウトレンジで戦うしかありませんでした。

 歩兵を指揮する者は守備の能力と投射兵器の有効的活用、騎兵を指揮する者は攻撃には強くとも守りは脆弱な騎兵の投入時期、撤退時期の見極めが最重要で、この能力の差が勝敗を分けます。これは洋の東西を問わず戦いの真理だったと私は思います。

 その騎兵の優位が絶対的になったはまさにモンゴル帝国の時代で、チンギス汗とその子孫たちが世界最大の帝国を築いたのも必然だったのでしょう。そのモンゴルの猛威が去った後、中東地域には別の新たな脅威が迫ります。それは同じイスラム世界に属するオスマントルコの侵略でした。

 オスマン朝も、発祥は遊牧民族であるトルコ族。建国当初は他のイスラム諸国と同様騎兵中心でした。ところがイスラム圏の最辺境に位置し、ヨーロッパ世界との境界にいたオスマン人たちは、世界に先駆けてマスケット銃を本格採用します。マスケット銃は15世紀チェコで起こったフス戦争で使用され、プロの軍隊である騎士軍をしばしば破りました。ところが西洋世界では騎士の身分を脅かすとしてなかなかマスケット銃の本格採用は進みませんでした。

 フス戦争で敗れたフス派の技術者たちはオスマントルコに亡命します。オスマン朝は、異教徒の技術であっても役立つものは積極的に採用する柔軟性がありました。だから世界帝国を建国できたとも言えますが、マスケット銃を常備歩兵軍団イェニチェリの主力武器として採用します。また専門の砲兵軍団、工兵軍団も創設し従来の騎兵軍団と共に世界に先駆けて、騎兵・歩兵・砲兵という近代的三兵戦術を確立しました。

 オスマントルコの軍隊は、サファビー朝の軍隊を破りエジプト・マムルーク朝の騎兵軍に勝って滅ぼしました。どちらもトルコ系民族が建国し騎兵の力によって周辺諸国を席巻した国でした。16世紀、17世紀と2度に渡ってウィーン包囲ができたのも、当時のオスマン軍が最先端の軍隊であった証拠です。

 ところが西洋では、ヴァロワ朝ブルボン朝のフランスと、スペイン・オーストリアハプスブルクとの対立が、テルシオ戦術、マウリッツ式、スウェーデン式という新たなマスケット銃歩兵戦術を出現させ、従来の戦争に革命をもたらします。これらは、マスケット銃の能力を極限まで発揮できるよう工夫された戦術で、テルシオはそれを防御に、マウリッツ式とスウェーデン式は攻撃に特化させました。

 第2次ウィーン包囲失敗後、オスマン帝国ハプスブルクオーストリアに押され始めたのはこれが理由でした。世界で先駆けて三兵戦術を採用したオスマン帝国も、西洋で急速に発展したマスケット銃戦術に追い付けなくなったのです。改革を怠り旧式化したイェニチェリは軍閥となりオスマントルコの癌となりました。1826年改革の必要を痛感した時のスルタン、マフムト2世は西洋式新式軍隊『ムハンマド常勝軍』創設と共にイェニチェリ廃止を宣言。抵抗したイェニチェリは殺されます。その数は実に六千人にも及んだと言われます。

 一時代を席巻した戦術は、成功体験があるためになかなか変えられないのでしょう。イェニチェリの歴史を見ると強く感じます。