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中世ヨーロッパ外伝  中世イングランド  ~ノルマンコンクエスト以前

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 今まで中世ヨーロッパシリーズで西欧世界全般の中世史を描きました。しかしどうしてもフランスとドイツが中心になり、イングランドについて書き足らなかったので今回中世イングランド史概説を述べたいと思います。
 
 ブリテン島のもともとの住民はフランスのガリア人と同族のケルトブリトン人でした。ローマ帝国の支配を受けそれなりにローマ文化を受容しある程度の文化を有していました。
 
 476年西ローマ帝国が滅ぶと、ブリテン島は蛮族ゲルマン人の侵略に晒されます。ブリテン島に侵入したのはアングル人、サクソン人、ジュート人など主にユトランド半島やドイツ北部に住んでいた民族でした。
 
 ブリトン人はあるいは支配され、それを良しとしない者たちはブリトン島西方に逃れウェールズを建国します。ですからもともとウェールズ人がブリテン島の正統な住民でした。
 
 
 アングル・サクソン・ジュート人たちはブリテン島の中部以南に定住し5世紀以降七王国を建国します。ちなみにスコットランドは侵略をほとんど受けませんでした。というのはローマ帝国でさえ手を焼いた剽悍な山岳民族ピクト人がいたからです。彼らは独立を保ち後にアイルランドから渡来したスコット人と合わさってスコットランドを建国します。
 
 
 七王国とは
ノーザンブリア(アングル人)
マーシア(アングル人)
イーストアングリア(アングル人)
エセックス(サクソン人)
ウェセックス(サクソン人)
サセックス(サクソン人)
ケント(ジュート人)
の七カ国をいいます。
 
 七王国のうち強盛になったのはウェセックス王国でした。827年エグバート王(在位802年~839年)の時イングランドを統一します。ウェセックスが後のイングランドの母体となりました。
 
 しかし、平和は長く続かずブリテン島は再びノルマン人の襲来に悩まされます。ノルマン人とはスカンジナビア半島バルト海沿岸地方に住んでいた北方系ゲルマン人で、アングロサクソンとあまり変わらない連中でした。彼らはヴァイキングとも呼ばれた海賊で最初は略奪が主でしたが、次第にブリテン島に定着しようと試みます。
 
 
 ブリテン島を主に襲ったのはユトランド半島のデーン人(のちにデンマークを建国)でした。このデーン人と戦ったのがウェセックス王アルフレッド(在位871年~899年)です。彼は血みどろの戦いの末886年ウェドモーアの和議でデーン人の定住を認める代わりに戦争を止めさせる事を約束させました。
 
 これによりイングランドに再び平和を持たらしたアルフレッドは大王と称えられます。ところがデーン人が定住を認められた土地、いわゆるデーンロウはヨークからロンドンの北までの東北部、実にイングランドの半分近くを占めるもので、これで果たして勝ったと言えるかどうかは疑問です。
 
 
 時代は下りデーン人の故郷デンマークにスヴェン1世(在位985年~1014年)が即位します。イングランド王国ではエセルレッド2世が国王でした。
 
 エセルレッド2世(在位978年~1016年)は無思慮王と言われたほど浅はかな人物で、デーン人の侵略を恐れるあまり国内のデーン人を多数虐殺しかえってスヴェン1世に侵略の口実を与えてしまいます。
 
 スヴェン1世は980年代からイングランド侵入を開始したそうですが、1013年ついにイングランド王エセルレッド2世を撃破し一時イングランドの王位を獲得します。エセルレッドはたまらず妻の実家ノルマンディー公国へ亡命しました。
 
 スヴェン1世は1014年急死、再びエセルレッド2世が復位します。ところがスヴェンの次男クヌートに敗れ1016年失意のうちに病没しました。エセルレッドの後は息子エドモンド2世が王位を継承しますが1年もしないうちに急死。
 
 こうしてイングランドの覇権を握ったクヌートは即位してイングランド王クヌート1世(在位1016年~1035年)となります。1018年本国デンマーク国王だった兄ハーラル2世が病没すると後継者がいなかったためデンマーク王位も継承。当時デンマーク王はノルウェー国王も兼ねていたのでクヌートはイングランドデンマークノルウェー三カ国を支配する国王となりました。これを北海帝国と呼びます。
 
 北海帝国はクヌートの個人的力量で保っていただけなので1035年彼が死ぬと北海帝国はわずか7年で瓦解。結局クヌートのスキョル王家に残ったのはデンマークだけでした。
 
 
 イングランドでは、エセルレッド2世の息子エドワード懺悔王(在位1042年~1066年)が即位しました。それまでノルマンディーに亡命して婚姻関係を結んでいたので繋がりができます。エドワードは結局イングランドの覇権を確立できず1066年没します。
 
 後を継いだのは妻の兄ハロルド2世でした。しかしこの王位継承に不満を抱いたハロルドの弟トスティはノルウェー王ハーラル3世をブリテン島に引き込んで兄と戦います。ハロルド2世は、ヨーク東方のスタンフォードブリッジでトスティ、ハーラル連合軍を撃破、両者を敗死させようやく安定を得たかに見えました。
 
 
 ところが同年エドワード懺悔王の従兄弟にあたるノルマンディー公ウィリアムが突如イングランドの王位を要求して渡海、へースティングスの戦いで敗れたハロルド2世は戦死してしまいます。
 
 ウィリアムは、ロンドンのウエストミンスター寺院で即位しイングランドウィリアム1世となりました。これがノルマンコンクエストです。以後イングランドは大陸と関わり合いながら100年戦争まで歴史を紡ぎます。