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インド大反乱とムガール帝国の滅亡

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 ムガール帝国は第6代アウラングゼーブ帝崩御の後凋落の一途をたどります。皇帝の死後例によって皇位継承を巡る争いが勃発、ために皇帝権は安定せず在位数か月という事も珍しくありませんでした。シヴァージーの記事でも書いた通りマラーター同盟がインド南部からデカン高原にかけてのムガール領を侵食し、一度は服属したはずのラジャスタン地方の戦闘民族ラージプート族も帝国の統制力が弱ると反抗を繰り返します。

 デリー西北部ではヒンズー教改革派のシーク教徒が台頭しムガール軍をしばしば破りついにはパンジャブ地方にまで進出しました。第12代ムハンマド・シャー(在位1719年~1748年)は比較的長く続いた皇帝ですが、逆にこの時期ムガール帝国は崩壊の速度を早めます。

 1739年、サファヴィー朝を滅ぼしペルシャを平定した風雲児ナディル・シャーはその野心をインド亜大陸に向けました。当時、ムガール帝国は派遣した総督が自立しベンガル、ハイデラバード、アウド、ロヒルカンドに次々と独立政権を樹立、内部からぼろぼろになり始めていました。当然そんなムガール軍が破竹の勢いのペルシャ軍に勝てるはずもなく首都デリーが陥落、莫大な財宝と共に有名な黄金製の孔雀の玉座もナディル・シャーに持ち去られてしまいます。ムガールにとって幸いだったのはナディルに領土的野心がなく略奪だけで満足したことでした。

 ペルシャ軍の侵入でムガールは多くの人民を殺され莫大な財宝を奪われ荒廃します。その20年後、今度はアフガニスタンを統一したアフマッド・シャー・ドゥッラーニーの軍の侵攻を受けるのです。泣きっ面に蜂とはこのことですが、ムガール帝国はすでにデリー周辺だけを支配する一地方政権に落ちぶれ北インドまで進出したマラーター同盟が新たなインドの覇者となりつつありました。

 1761年アフガン勢力とマラーター同盟の間でインドの覇権をかけて戦われたのが第3次パーニーパットの戦いです。この時もしヒンズー教徒のマラーター同盟がインドを制すれば追い出されてしまうと危機感を持ったイスラム勢力がアフガン勢に協力したと言われています。結果はドゥッラーニー朝軍の大勝。ただここでもアフガン勢力は略奪をした後インド統治の困難さから撤退してしまいました。残されたのは混乱し数多くの国が乱立する戦国時代のインド。

 そこに付け込んだのがヨーロッパ勢力です。欧州とインドの関りはヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰を経由して1498年インドのカリカットに到達したのが最初でした。12年後ポルトガルはインド西海岸のゴアを獲得します。次いでオランダが東インド会社を設立してインドへ進出、ポルトガル勢力とインドの交易権をめぐって激しく争いました。

 イギリスとフランスはそれに遅れてインドに来ますが、イギリスはチャールズ2世に嫁いだポルトガル王女の持参金としてボンベイを貰うとそこを起点に本格的にインドに勢力を拡大します。イギリスも東インド会社を設立しており、イギリス政府は東インド会社ボンベイを低利で貸与。イギリス東インド会社ボンベイ東海岸マドラスベンガル湾に面したカルカッタを中心にインド内陸部に進出しました。

 東インド会社は独自の軍隊も持ち、インドの諸王国の対立をうまく利用し商館からはじまり領土を獲得していきます。ムガール帝国はイギリスの狡猾な意図を読めず、貿易特権を与えてむしろ進出を促進させました。イギリス東インド会社は拡大の一途をたどりついにはイギリス政府の意向に逆らうまでになります。イギリス政府は介入を強め東インド会社を再編することで対抗しました。

 ムガール帝国は権威だけを残すも実態はデリー周辺を領するだけの小国に落ちぶれ、他のインド勢力はインド亜大陸に独占的な力を持つようになったイギリスの半植民地と化します。もちろんインド土着勢力も黙っておらず3次に渡るマラーター戦争、4次に渡るマイソール戦争など各地で反イギリス戦争が起こりますが、イギリスは近代兵器でこれを粉砕しました。敗れた諸国は藩王国という事実上のイギリス保護国となります。

 イギリス東インド会社は、インド現地人を傭兵として採用します。この中には上流階級のイスラム教徒、ヒンズー教徒が多かったそうです。彼らはセポイとかシパーヒーと呼ばれます。19世紀、東インド会社の傭兵軍も最新式のエンフィールド式ライフルを採用する事となりました。ところがライフルの紙製薬包を口でちぎって銃口に入れる方式だったことが大問題になります。薬包にはヒンズー教徒が神聖視する牛の脂、イスラム教徒が禁忌とする豚の脂が使われていたのです。傭兵たちはエンフィールド銃の使用を拒否。東インド会社側は厳罰をもって使用させようとしますが逆効果でした。

 1857年5月、インド北部の都市メーラトに起こったシパーヒーの反乱がきっかけとなります。反乱軍はデリーに進軍し、これにデリーのシパーヒーたちが加わりました。反乱軍はデリー駐留のイギリス軍を駆逐。もともとイギリスに対する反感は多くのインド人たちが抱いていたものでしたから、次々と反乱に加わりインド亜大陸全体に広がります。

 かつては反乱の発端になったのがセポイシパーヒー)だったことからセポイの乱と呼ばれましたが、近年は各地の領主、農民などあらゆる階層を含んだ反乱だったことからインド大反乱あるいは第1次インド独立戦争と呼ばれるそうです。

 反乱は起こしたものの、寄せ集めでばらばらだった反乱軍には精神的支柱が必要でした。そこで彼らはムガール第17代皇帝バハードゥル・シャー2世(在位1837年~1858年)に目を突けます。権威だけは残っていたムガール皇帝を統合の象徴として担いだのです。そこに皇帝の意思はありませんでした。拒否すれば殺されるのですから従うしかなかったと思います。

 最初は混乱したイギリス軍も、射程の長い新式銃エンフィールドライフルを大量装備し反撃を開始。旧式の滑腔マスケット銃しか持たない反乱軍を射程外から攻撃して圧倒、降伏した捕虜は大砲で吹き飛ばして虐殺するなど厳しい処置で見せしめとし、近代兵器と恐怖政治で反乱に挑みます。

 結局、ばらばらの反乱軍は近代的なイギリス軍に各個撃破され1859年にはほぼ鎮圧されました。ただ反乱軍の生き残りは各地でゲリラ戦を行い抵抗を続けます。皮肉なことにインド大反乱はイギリスのインド植民地化を進める結果となりました。

 反乱に加わった藩王国は潰されイギリスの直接植民地と化します。反乱に巻き込まれただけの皇帝バハードゥル・シャー2世はデリーがイギリス軍に再占領されると降伏。イギリスが行った裁判によって有罪とされ、廃位されたのち1858年ビルマに流刑になりました。バーブル以来332年にわたってインドに君臨したムガール帝国の滅亡です。

 イギリス東インド会社も反乱を招いた罪を問われインド統治権をイギリス王室に返上、解散させられました。これによりイギリス国王が同君連合でインド皇帝を兼ねるイギリス領インド帝国が成立します。実際はイギリスの植民地です。

 インド国民が主権を取り戻すにはガンジーネルーなどによる1947年のインド独立を待たなければなりませんでした。