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世界史英雄列伝(38) 『シェール・シャー』 インド史上一代の英傑

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 久しぶりの英雄列伝更新、しかも世界史カテゴリーで最も人気のないインドシリーズでございます(爆)。

 もの凄い私のブログのファンでインドシリーズを読んだという記憶力の良い奇特な人は、憶えていらっしゃると思いますが(そんな人はごく一握りですが…苦笑)、『アクバル大帝と第2次パーニーパットの戦い』の記事でムガール朝二代皇帝フマユーンをインドから叩き出し自らのスール朝を建国したシェール・シャーは非常に興味深い人物だと紹介した事があります。
http://blogs.yahoo.co.jp/houzankai2006/11498104.html

 あの時は資料が揃わなくて、アフガン貴族出身であること、かってはムガール朝にも仕えていたこと、一代で王朝を築いたシェール・シャーは短い治世の中統治機構を整備し、それがインドでの覇権を奪回したムガール朝アクバル大帝によって受け継がれたこと、くらいしか分かりませんでした。

 今ある程度資料がそろいましたのでこの機会にご紹介します。

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 シェール・シャー(1486年~1545年、在位1540年~1545年)は、インド・ビハール州で生まれました。ビハールはインダス川中流から下流域あたり、ベンガルに近いところです。彼の家系はもともとアフガン貴族出身でインドの征服王朝であるロディ朝に仕えていました。

 シェールの父は、ビハールの一地方の領主でした。15歳のとき遊学してアラビア語ペルシャ語を学んだと伝えられています。彼は幼少から優れた資質を見せその行政手腕から父の領地の管理を任されていたそうです。しかし継母との折り合いが悪く、家を飛び出してそのころロディ朝を滅ぼしてインドに覇権を確立しつつあったバーブルに仕えました。

 ただバーブルの覇権が確立した時期は、第1次パーニーパットの戦いのあった1526年ですから、シェールがバーブルの下に赴いたのはその前だった可能性があります。

 だとすると、恐るべき慧眼です。まだ海のものとも山のものともつかないバーブルに将来性を見出したのですから恐れ入ります。そのころのバーブルは本拠のサマルカンドをシャイバーニー・ハーンのウズベック族に奪われ、奪回を図るも失敗、仕方なくインドに矛先を変えてパンシャブ地方を巡ってロディ朝と抗争を繰り返していたところでした。

 一応シェールがバーブル軍に従軍したのは1527年4月から1528年6月と資料にありますので、その線で話を進めましょう。


 一代の英雄バーブルは1530年、アーグラでの地において48歳で崩御します。そのころシェールは一時仕えていたビハール太守バハール・ハーンの下に戻っていたようです。バハールもシェールの才能を認めていて、幼い我が子ジャラールの家庭教師兼統治代行者(日本で言えば摂政に当たるでしょうか?)に任ぜられます。

 しかし、バハールが死去すると権力は次第にシェールのもとに集まりました。程なくしてビハール州の実質的支配者になったシェールは1531年、バーブルの後を継いだ息子の二代皇帝フマユーンに反旗を翻し独立を宣言します。

 ジャラールや他のアフガン貴族達には寝耳に水でした。彼らは隣国ベンガルムハンマド・シャーと同盟を結びシェールを除こうとします。しかし機先を制したシェールは電撃的にベンガルに侵攻し1534年にはベンガル軍をキウル川で破りました。

 1537年頃にはベンガルの支配権も確立し、シェールはビハールと併せた国の領主となっていました。ジャラール一派がどうなったのかは不明ですが、戦いに敗れ殺されたか、宗主国であるムガール皇帝フマユーンのもとへ逃れたかどちらかでしょう。

 日の出の勢いのシェールに対し、フマユーンはついにその重い腰をあげます。しかしムガール軍は1539年のチャウサ、1540年のカナウジの戦いで相次いでシェール軍に敗れ逆に本拠地に攻め込まれる始末でした。

 1540年、ムガール帝国の首都デリーと要衝アーグラが陥落します。皇帝フマユーンは命からがら逃げ出しサファビー朝ペルシャに亡命しました。彼がサファビー朝の援軍を得て再びインドに帰って来るのは15年後のことです。

 シェール・シャーはデリーにおいて即位、スール朝の建国を宣言します。54歳になっていました。シェールはその後もムガール側に残ったパンシャブ地方やラージプート族への戦いを続けます。1545年彼が死去するときには北インド一帯を占める大帝国が出現していました。

 彼は5年間という短い治世の間に行政・司法の仕組みを整え税制を改革し道路網を整備して経済の発展に努めました。これはインドを奪還したムガール帝国がそのまま受け継いだことからも、その優秀性がうかがえます。例えば彼が創始した貨幣制度で誕生したルピーは今でもインドや周辺諸国で流通しています。

 中国史において、後周の世宗・柴栄の治績にも匹敵するようなシェール・シャーの統治でした。


 しかしスール朝は後継者に恵まれませんでした。1553年に第二代スルターン、イスラーム・シャーの統治が終わると後継者争いで帝国は分裂し、そこをペルシャで逼塞していたフマユーンに衝かれ1555年には再びデリーがムガールの手に戻ります。その後三代皇帝アクバルが即位すると分裂していた各王朝はことごとくムガールに滅ぼされました。

 
 王朝の寿命はわずか15年、インド史においては仇花のような政権でしたが、その影響は現在までも続いています。


 とすれば、シェール・シャーという人物はインド史上において一代の英傑だったと言えるのではないでしょうか。