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バーブルとムガール朝興亡史Ⅴ 北インドの覇者(終章)

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 1206年、ゴール朝のマムルーク(軍人奴隷)あがりアイバクのデリー征服から始まったデリースルタン朝は、アイバクの奴隷王朝からハルジー朝、トゥグラル朝、サイード朝と続き1520年代には最後の王朝ロディ朝が君臨していました。デリーを都としその版図は北インド全域に広がります。

 彼らは皆、トルコ系かアフガン系のイスラム教徒でしたから国民の大多数を占めるヒンズー教徒にとっては同じような征服王朝だと映っていたに違いありません。当時のインド亜大陸は騎兵が活躍できる北インドのヒンドゥスタン平原だけがイスラム勢力に征服されただけで、デカン高原以南はドラヴィダ系のヴィジャヤナガル王国などが栄えた別天地でした。デカン高原の山岳地帯や南部の熱帯地方はイスラム勢力の騎兵の侵入を許さない自然の障壁だったのです。

 当時ロディ朝はイブラヒームがスルタンでしたが、彼の叔父でパキスタン中東部ラホール太守だったダウラト・ハンはスルタン位を狙って隣国バーブルに援軍を求めます。自国の権力争いに外国を引き込むのですからとんでもない売国奴ですが、インド進出の機会を狙っていたバーブルにとっては願ってもない好機でした。バーブルは後顧の憂いを断つべく宿敵ウズベク・ウルスに隣接するバダフシャーンの守りを長男フマーユーンに命じます。そして自らは1万2千の兵を率いてカブールを出発しました。時に1525年、バーブル42歳。

 兵力は少なくとも、バーブル軍はこの地では珍しくマスケット銃隊と砲兵隊を擁していました。すでに何度かの遠征でパンジャブ地方の入り口ビーラは占領していたので北インド侵攻は容易でした。一方ロディ朝は間の悪い事に南西に接するラージプート族と戦争の真っ最中でした。反乱者ダウラト・ハンにとってはそこが狙いでしたが、バーブルにとっても同じでした。裏切り者ダウラト・ハンはバーブルの攻撃を受け降伏します。結局外患を誘致しただけの存在でした。

 破竹の勢いで進軍するバーブル軍は、パンジャブ地方を完全に平定し1526年4月デリーの入り口70kmのパーニーパットに布陣します。この頃にはインド土侯が次々と参陣し総勢2万4千に膨れ上がっていました。ロディ朝イブラヒームは12万の大軍を集結させます。

 4月21日早朝、両軍は激突しました。イブラヒームはこの戦いに千頭の戦象を集めたそうですが、おそらく生まれて初めて目にするバーブル軍のマスケット銃と大砲に前に大混乱となり潰走します。戦闘は正午までには決着がついたそうです。この戦いを第1次パーニーパットの戦いと呼びます。なお30年後同じ地でバーブルの孫アクバルが戦いますがこちらは第2次パーニーパットの戦いです。

 北インドの覇権を決める戦いが何度も同じ地で起こるのはそれだけ戦略上の要衝だったからなのでしょう。現在の地図を見てもよく分かりませんが、おそらく日本で言えば関ヶ原のような位置を占めていたと思います。想像ですが、パンジャブ方面からデリーに抜ける街道の山間部を出たところ。デリー側はこの地で防がなければ後はデリーまで平坦地が続き防衛拠点を築けないという要地だったのでしょう。

 ロディ朝最後のスルタン、イブラヒームはパーニーパットで戦死しました。これによってロディ朝は崩壊します。バーブルはデリーに入城しアグラも制圧しました。周囲の勢力は未だ従っていません。バーブルの家臣たちは、半年に及ぶ遠征に疲れインドの暑い気候にも参っていた事からカブール帰還を訴えます。しかしバーブルの決意は固く、苦労して家臣たちにインドを放棄する愚を説きました。この頃からぼつぼつと周辺諸侯が臣従をはじめ、バーブルは彼らを繋ぎとめるために連日大宴会を行います。バーブルは酒好きだったと伝えられますが、同時にそれは政治的意味もあったと私は考えます。

 順調に見えたバーブルの前に1526年12月、事件が起こります。イブラヒームの母親がインド人の料理人に命じてバーブルに毒を盛らせたのです。幸いな事に少量口にして意変に気付いたため死には至らなかったのですが、それでも回復には5日間かかりました。怒りの収まらないバーブルはこの事件に関係した料理人や毒見役を全員処刑しますが、イブラヒームの母親に対しては監視を強めただけでした。これをバーブルの寛大さと取るか、甘さと取るか。どちらにしろ未だバーブルの覇権は不安定で旧支配者に対してもある程度の配慮が必要だった事だけは理解できます。

 1527年、最大の危機が訪れます。ラージプート族の首長ラーナー・サンガーがついに対バーブル戦争に立ち上がったのです。ラージプート族というのは、その起源は5世紀ごろ中央アジアから渡ってきたイラン系、あるいはトルコ系の遊牧民族だとされますがカーストの武士階級クシャトリアの子孫を称する戦闘民族でした。ラーナー・サンガーは二十万の兵力を集めます。

 1527年3月17日バーブルも軍を率いアグラ西方バヤーナ郊外カーヌワーハに布陣してこれを迎え撃ちます。この時のバーブル軍の兵力は不明ですがおそらく数万。ラージプート軍と比べると著しく劣勢でした。バーブルはこの戦いで、オスマン軍がイスマイール1世のサファビー軍を破った時の戦法を採用します。中軍の前面に連結した荷車を並べその後ろにマスケット銃隊や砲兵隊を並べました。騎兵は両翼に配します。

 カーヌワーハの戦いは、パーニーパット以上の激戦だったと伝えられますが、ここでもマスケット銃と大砲が威力を発揮します。ラージプート軍は大損害を出して敗走しました。こうして勝利を得たバーブルはやっと北インドの覇権を手にします。インド最強のラージプート族を破ったという報は北インド各地を駆け巡りそれまで臣従してこなかった諸侯も次々とバーブルの元に参集しました。ラージプート族も敗戦後各個撃破され最終的にはバーブルに従います。


 こうしてバーブルは北インドを平定します。彼の帝国は本来ならバーブル朝と言うべきですがインドの人々はティムールとモンゴルを同一視していたためモンゴルのペルシャ語読み『ムグール』が訛ったムガール帝国と呼びました。

 その後もバーブルは帝国を安定させるために各地に遠征します。ところが無理が祟ったのか1530年12月26日アグラで病没しました。享年48歳。あまりにも早すぎる死でした。後を継いだフマーユーンは不肖の息子で、父ほどの器量がなかったため臣下のシェール・シャーに叛かれインドから叩きだされます。15年後亡命先のサファビー朝の援軍とともにシャール・シャー死後乱れたスール朝からデリーを回復し、息子アクバル(バーブルの孫)に継承させました。

 アクバル帝こそバーブルが基礎を築いたムガル帝国を盤石にした人物です。一応書いておくと、サファビー朝の援軍を得る方便としてフマーユーンがシーア派に改宗していたのをインド統治のためにスンニ派に戻したのはアクバル帝です。以後ムガル帝国はジャハンギール、シャー・ジャハンと続きアウラングゼーブ帝の時インド亜大陸のほとんどを領する最盛期を迎えました。



 バーブルは、酷暑のインドより夏涼しいアフガニスタン中央アジアを懐かしんだと伝えられます。バーブルは自分の遺体をカブールに葬るように遺言しますが、皮肉にもこれを実行したのは簒奪したシェール・シャーでした。1607年ようやく曾孫ジャハンギールによって簡素な墓が作られます。インドにいても最後までサマルカンドへの憧れを持ち続けていたのでしょう。