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バーブルとムガール朝興亡史Ⅳ 新天地

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 1510年メルブの戦いでシャイバーニー・ハンが戦死しウズベク・ウルスはがたがたになりました。あまりにもシャイバーニー・ハンのカリスマに頼りすぎていたために後継者を巡って一族が争いを始めます。間者の報告を受けたバーブルは千載一遇の好機が巡ってきたと感じました。軍を率いカブールを出発したバーブルは厳冬のヒンズークシュ山脈を越えるという無理を重ねて1511年初頭アムダリアの畔クンドゥズに到着します。

 しかしバーブル独力では強大なウズベク・ウルスと戦うことは不可能でした。バーブルはサファビー朝に使者をを送りシャー・イスマイール1世に臣従を誓い援軍を要請します。サファビー朝の援軍を加え6万の大軍に膨れ上がったバーブル軍は、アムダリアを渡河しトランスオクシアナ地方に雪崩れ込みました。最初に攻略したのはブハラでした。同年10月には悲願のサマルカンド回復を果たします。実に9年ぶりの入城です。バーブルは28歳になっていました。(第3次サマルカンド遠征)

 バーブルはシーア派のサファビー朝の援軍を得るためにシーア派に改宗していました。サマルカンド市民は異民族支配からの解放者としてバーブルを迎えますが、彼がシーア派の服装をしていたのをみて愕然とします。スンニ派だったサマルカンド市民は失望し、バーブル歓迎のムードは消えました。1512年、サマルカンドを追われたウズベク族は、再びシャイバーニー・ハンの甥にあたるウバイドゥッラー・ハン(1485年~1540年)のもとに結集します。

 反攻に転じたウズベク軍は、バーブルに奪われたトランスオクシアナの諸都市を攻撃しました。放置できなくなったバーブルは鎮圧のため軍を率い東奔西走します。1512年11月、両軍はブハラ郊外のグジュドゥワーンで激突しました。この戦いでバーブル軍は決定的な敗北を喫します。兵の質でもバーブル軍はウズベク軍に敵わなかったのです。

 サマルカンドは、その支配者を替えます。そしてこれ以後バーブルがサマルカンドを支配する事は二度とありませんでした。トランスオクシアナはウズベク・ウルスの支配下に収まります。以後、この地はウズベキスタンと呼ばれるようになりました。

 諦めきれないバーブルは、1513年、1514年とアフガニスタン北部にとどまり出兵の機会を待ちますが、大勢はすでに決していました。トランスオクシアナの住民もシーア派に改宗したバーブルを顧みる事はありませんでした。1515年バーブルは失意のうちに本拠地カブールに戻ります。

 バーブルを失望させたのはサファビー朝のオスマントルコに対する敗北でした。1514年8月23日後ろ盾だったシャー・イスマイール1世はアナトリア高原東部チャルディラーンでオスマントルコのセリム1世と戦います。サファビー朝軍6万、オスマントルコ軍12万、数の上でも太刀打ちできませんがサファビー朝軍自慢の騎兵隊もオスマン軍イェニチェリ(キリスト教徒から選抜された精鋭常備歩兵軍団)のマスケット銃と大砲の前に全く歯が立たなかったのです。

 サファビー朝は、この戦いの敗北でメソポタミアを失いシャー・イスマイール1世自身も敗戦のショックで政治に対する関心を失ったそうです。バーブルは、サファビー朝の援軍を期待できなくなりました。ただ、バーブルはチャルディラーンの戦いを研究しマスケット銃と大砲の有効性を認め自軍にも導入します。これだけが唯一の成果だったと言えます。

 サマルカンド回復の夢は実現不可能となりました。バーブルはここにきてようやく南のインドに関心を向けます。当時のインドは、イスラム教徒の征服王朝デリー・スルタン朝末期にあたり政治は乱れていました。北インドの主ロデイ朝は、王朝末期にありがちなお家騒動に揺れていたところです。1518年以降、バーブルはインド遠征を繰り返します。まずはインドの入り口、カイバー峠の向こう側北西インドのパンジャブ地方へ。

 パンジャブ地方は、現在の北西インドからパキスタン北東部にまたがる地域です。パンジャブの語源はペルシャ語で「5つの水」を意味します。高原でありながら大河インダスの上流域にあたりその支流も多くインド有数の穀倉地帯でした。歴史上パンジャブ地方を制した者は北インドを制する事が出来るという要地です。仏教を保護したカニシカ王カニシュカ1世)で有名なクシャーナ朝も、この地にあるプルシャプラ(現ペシャワール)に都しました。

 バーブルの北インド遠征は成功するのでしょうか?次回、最終回『北インドの覇者』を記します。