※ゴール朝の最大領域(13世紀初頭)
古代インド最後の帝王ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王 在位606年~647年)の死と共に急速に瓦解したヴァルダナ朝。実はこのあと面白いエピソードがあるので記します。
唐の使節を率いてきた王玄策は、ハルシャ王の大臣で王位を簒奪しようとしていたアルジュナに一時捕われてしまいます。一念発起した王玄策は、虎口を脱し各地に檄文を出しました。これに応じた吐蕃(チベット)やネパールの兵八千を率い簒奪者アルジュナの兵と戦います。そしてなんとアルジュナの大軍を破りこれを捕らえてしまいました。王玄策は簒奪者を唐へ連行し太宗皇帝に引き渡します。その功により朝散大夫に任じられたそうです。
しかしこれでヴァルダナ朝が復活する事はなく多くの小国に分裂し以後インド人による統一王朝は生まれませんでした。
次に台頭してきたのは西インドに根拠地を持つラージプート族です。もともとはフーナ族(エフタル)と共にインドに侵入してきたグルジャラ族の一派とも言われ戦士階級として一時は北インドを席巻するほどの力を持ちました。
ところが10世紀後半、サーマン朝に仕える軍人奴隷出身の有力な将軍(氏名は謎)が任地のアフガニスタンで興したガズナ朝は第7代スルタン、マフムード(971年~1030年、在位988年~1030年)の時代にインドへの野望を露わにします。
大軍を率いてカイバー峠を越えたマフムードは、中央アジア産の優秀な馬で編成された強力な騎兵軍によって分裂状態にあった北インドの諸国を次々と撃破しました。1018年ヴァルダナ朝以来の政治の中心都市カナウジ陥落、1025年にはカーティアーワール半島(パキスタンとの国境に近いインド西部の半島)の宗教都市ソームナートまで攻撃を受けました。
ゴール朝の侵攻は、これまでのガズナ朝と違いインドの恒久支配を目指した本格的なものでした。インド側もこれを脅威に感じラージプート諸王はチャウハーン朝プリトゥヴィーラージ3世のもとに結集します。両軍は1191年デリー近郊タラーインで激突しました。この時は危機感を持っていたラージプート連合軍の奮戦でゴール軍を押し返します。
しかし略奪などという安易な気持ちでなかったためムハンマドは一時の敗戦では屈しませんでした。間もなく体制を立て直したゴール軍は再びタラーインの地でラージプート連合軍と相まみえます。
この第2次タラーインの戦いで大敗を喫したラージプート連合軍は瓦解、プリトゥヴィーラージ3世も捕えられて処刑されました。ゴール軍はそのままデリーを占領しさらに東に進軍します。1202年にはベンガル湾まで達したそうです。
以後ゴール朝はアフガニスタンから北インドにまたがる大帝国を築きインドを支配します。ゴール朝自体は1203年イランのホラズム朝に敗北し1215年滅亡しますがゴール朝最後のスルタン、ムハンマド・ゴーリーに仕えた軍人奴隷アイバクがデリーで自立、いわゆる奴隷王朝を創始しました。(1206年~1290年)
以後のハルジー朝(1290年~1320年)、トゥグルク朝(1320年~1414年)、サイード朝(1414年~1451年)、ロディ朝(1451年~1526年)もデリーを首都とし北インドを支配したので、この320年をデリー・スルタン朝の時代と呼びます。