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バーブルとムガール朝興亡史Ⅱ ウズベク・ウルス

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 バーブルの生涯に関わる世界史級の重要人物が三人います。一人はサファビー朝の創始者イスマイール1世(在位1501年~1524年)。バーブルのサマルカンド奪還を助け軍隊を送ったりもしています。この関係はバーブルの息子フマーユーンとイスマイール1世の息子タフマースブ1世の代になっても変わらず、フマーユーンがスール朝のシェール・シャーに敗北しインド亜大陸から叩きだされた時も亡命を受け入れ15年後のインド奪還を助けています。

 もちろんサファビー朝側に善意があってのことではありません。多少の善意はあったとしても自国イランの東方国境を安定させ属国(バーブルの事)支配で守ろうという意図が大きかったと思います。実際、ササン朝ペルシャ中央アジアに興った遊牧騎馬民族エフタルの侵攻に悩まされ衰退したのですからこの地方の安定は王朝の存立にかかわる最重要課題でした。


 いま一人は言うまでもなくスール朝を興したシェール・シャー(在位1539年~1545年)。バーブル存命時はバーブルに仕え息子フマーユーンの代に牙をむきます。有能な将軍でありまたたく間にムガール勢力を駆逐北インドを平定しました。わずか5年の治世でしたが、現代に繋がる貨幣制度ルピーを創設するなど政治的経済的にも後のインドに大きな影響を与えます。もし彼が長命であったらムガール帝国の復活はありえなかったはずです。


 最後の一人こそ、ウズベク・ウルス(シャイバーニー朝)の実質的創業者ムハンマド・シャイバーニー・ハン(1451年~1510年)です。ムガール生涯の好敵手、というよりムガールが一度も勝てない大きな壁と言ってもよい存在でした。

 シャイバーニー・ハンは分裂状態にあったウズベク族を再統一した人物です。もともとジュチ・ウルス(キプチャク汗国)治下でモンゴル化したトルコ族の一団を15世紀前半に纏め上げたのはシャイバーニーの祖父アブル=ハイル・ハン(在位1428年~1468年)でした。ジュチの五男シバンの子孫だと言われます。アブル=ハイル・ハンは衰退したサライ政権(ジュチ・ウルス)から独立しキプチャク平原東部を統一しました。キプチャク平原あるいはキプチャク草原と言ってもピンとこないかもしれませんが、簡単に説明すると西はウクライナ平原から東は天山山脈北麓、カザフ平原東部まで。南はパミール高原、トランスオクシアナ地方、北部はシベリア凍土の南までという広大な地域を指します。11世紀から13世紀にかけてキプチャク族(別名クマン族)が活躍した地域である事からそう呼ばれました。支那の歴史書では欽察草原と記されます。

 アブル=ハイル・ハンの勢力はウズベク族と呼ばれますが間もなく分裂し、一部はトカ・テムル家のケレイとジャニベク・ハンに率いられモグリスタン北辺に移住しました。この一団は後にカザフ族となります。アブル=ハイル・ハンの死後ウズベク族は崩壊し孫のシャイバーニー・ハンも各地を転々とする惨めな亡命生活を味わいました。後にシャイバーニー・ハンはシルダリア中流域に定住しウズベク族再統合に成功します。バーブルが父の死を受けてフェルガナの君主になったのはちょうどこの時期でした。


 ようやく独り立ちしたバーブルに1495年チャンスがやってきます。といっても彼はまだ12歳。臣下の補佐がなければ何もできない存在ではありましたが。従兄弟のバイスングルがサマルカンドの支配者の地位を継いだ時お家騒動が起こります。バイスングル支持者と彼の弟スルターン・アリーを支持する一派に分裂し互いに争い始めたのです。

 スルターン・アリー一派はバーブルと同盟し援軍を要請しました。おそらくバーブルの意思というより取り巻きの臣下たちの意思だったでしょうが、1496年要請を承諾しフェルガナ軍はサマルカンドに入ります。これが第1次サマルカンド遠征。しかしこれはバイスングル一派の抵抗に遭い失敗しました。翌1497年にもバーブルは第2次サマルカンド遠征を敢行しますが、窮乏したバイスングルは北方ウズベク・ウルスのシャイバーニー・ハンに援軍を要請しました。

 ただ、バイスングル支持者の間で一族の争いに外国を引き入れるのはどうかという疑問の声が上がりバイスングルは結局ウズベク族の援軍を断ります。ところがサマルカンド近郊まで来ていたシャイバーニー・ハンは当然ですが怒ります。もちろん多分に演技ではあったと思いますが…。間もなくサマルカンドウズベク軍に包囲されました。7か月の攻囲の末陥落、バイスングルはクンドゥーズに逃亡します。シャイバーニー・ハンはこれを追撃しサマルカンドは一時的に無主となりました。

 この隙をついてバーブルはやすやすとサマルカンドを占領します。1497年11月バーブルはサマルカンドでスルタンに即位しました。バーブル14歳の時です。が、棚ぼた式の幸運は長く続きませんでした。臣下のスルタン・ムハンマド・タンバルがフェルガナの首都アンディジャンで反乱を起こします。タンバルはバーブルの異母弟ジャハンギール・ミールザーを擁していました。首都にいるバーブルの母と祖母は至急援軍を求め1498年2月バーブルはサマルカンドを出発せざるを得なくなります。わずか100日のサマルカンド統治でした。サマルカンドは間もなく反乱軍の手に落ちます。


 次回は、バーブルとシャイバーニー・ハンのサマルカンドを巡る攻防戦を描きます。