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バーブルとムガール朝興亡史Ⅲ サマルカンド攻防戦

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 バーブルの異母弟ジャハンギール・ミールザーを擁し謀反を起こした臣下スルタン・ムハンマド・タンバルは軍を率いてフェルガナの首都アンディジャンを攻略しました。結局バーブルの援軍は間に合わなかったのです。サマルカンドを失い、今度は本拠地まで失ったバーブルは後にバーブル・ナーマにこの時の心境を記しています。

 「私にとって恐るべき試練だった。私はどうする事もできず号泣した」

 無理もありません。わずか15歳の少年なのです。城を脱出してきた母と祖母を何とか収容したバーブルは、フェルガナ西部ホジャンドに本拠を移し謀反人タンバルと戦いました。落ち目の君主に従う兵はいません。次々と部下が離反しバーブルにとって最悪の時期だったことでしょう。苦境の時期は2~3年続きました。

 そんな中、1499年6月手引きする者があってバーブルはようやくアンディジャンを奪回します。しかしタンバルとの抗争はこの後も続きました。時代はバーブルの預かり知らぬところで動きます。1500年夏ウズベク・ウルスのシャイバーニー・ハンによってサマルカンドが落とされティムール朝サマルカンド政権は崩壊しました。ただ、ティムール朝残党(バーブルもその一人ですが…)との抗争は続きウズベク軍は各地に討伐の遠征を続けます。

 シャイバーニー・ハンが留守の間、サマルカンドでは異民族支配を嫌った町の有力者たちが秘かにバーブルと連絡を取ります。1500年秋、内通者の手引きでバーブル軍は夜半城壁を登り正門を開けました。バーブルの本隊はそれを見て城内に突入、やすやすとサマルカンドを占領します。この時シャイバーニー・ハンは城外にいたそうですが意変に気付きサマルカンドに突入。が、バーブル軍が城内に溢れているのを見て形勢不利を悟り兵を引きます。このあたりの機敏さをみてもシャイバーニー・ハンの将器が分かりますね。

 バーブル時に17歳。これがバーブルの第2次サマルカンド遠征です。前回の失敗に懲りたバーブルは今度こそ安定した支配を築こうと城の防備を固めます。一方、シャイバーニー・ハンもサマルカンドを諦めたわけではなく両者の決戦は避けられませんでした。ウズベク・ウルスの挑発に乗ったバーブルは自ら軍を率い1501年5月サマルカンドとブハラの中間にあるサリ・プルでウズベク軍と激突します。最初は互角の戦いを演じていたバーブル軍ですが、味方のモグリスタン軍の裏切りもありシャイバーニー・ハンに散々に撃ち破られました。

 潰走するバーブル軍は命からがらサマルカンドに逃げ込みます。ウズベク軍はこれを追ってサマルカンドを包囲しました。籠城戦は4カ月以上も続きまず兵糧が不足します。援軍も期待できず絶望した城内の兵は次々と逃亡しました。ほとほと困り果てたバーブルはシャイバーニー・ハンに和を請います。結局バーブルの姉ハンザーダ・べギムをシャイバーニー・ハンに差し出すという屈辱的条件で許されバーブルは少数の部下を率いサマルカンドを脱出しました。この時のサマルカンド支配もわずか1年。そのほとんどが籠城戦という悲惨な結果です。

 トランスオクシアナ地方の一大支配者となったシャイバーニー・ハン。バーブルは絶望のあまり支那方面への脱出を考えたとも伝えられます。1503年にはモグリスタン汗国のスルタン・マフムード・ハンもウズベク軍に敗北しタシュケントが奪われます。翌1504年にはバーブルの生まれ故郷ファルガナも占領されました。

 絶体絶命のバーブル。最初は親族のいるアフガニスタンのヘラートに亡命しようと考えます。この時彼に従う兵はわずか3百あまりでした。そこへ、シャイバーニー・ハンに追われたモグリスタンの敗残兵が合流します。これで気をよくしたバーブルは行く先を南のカブールに変えました。そこはヘラート政権スルタン・フサイン・ミールザーの部下アルグン部のミールザー・ムキームの領地でした。今から頼ろうとする勢力の家臣の領地に攻め込むのですからバーブルもいい根性してますがそれだけ追い詰められていたという事でしょう。幸いな事にムキームは抵抗せずカブールの支配権を譲り渡し臣従します。

 が、山間部のカブールは貧しく大勢の部下を養うことはできませんでした。バーブルは豊かなインドに目を付け1505年1月略奪を目的とした第1次インド遠征を行いました。これがバーブルがインドと関わりを持つ端緒となります。しかしこの時はまだインド征服などという野望はなかったはずです。

 1506年、ヘラートのスルタン・フサイン・ミールザーは宿敵シャイバーニー・ハンとの全面対決を決意し各地の一族を招集しました。バーブルもこれに応じ軍を率いてヘラートに向かいます。ところが肝心のスルタン・フサイン・ミールザーが病没しティムール一族の対ウズベク・ウルス共同戦線はぐだぐだのうちに消滅しました。ヘラートで歓待されたバーブルですが、何ら得ることなく本拠カブールに戻ります。

 1507年6月、ヘラート政権もまたシャイバーニー・ハンに滅ぼされました。こうなるとティムール一族で生き残りはバーブル一人となります。シャイバーニー・ハンはあまりにも巨大となりました。ところが捨てる神あれば拾う神ありで、隣国ペルシャにサファビー朝が勃興します。シャー・イスマイール1世(在位1501年~1524年)はトランスオクシアナに出現したウズベク・ウルスに脅威を感じました。強敵を倒すために目をつけたのがカブールのバーブル政権。イスマイール1世は、バーブルのサマルカンド奪還作戦の際には援軍を送ると約束しました。

 イスマイール1世とシャイバーニー・ハンの対立は回避不可能なところまできます。サファビー朝がシーア派ウズベク・ウルスがスンニ派という宗派対立もあったのでしょう。両者は互いに信仰を非難しあい1510年ついにイスマイール1世は軍を率いホラサン地方(現在のペルシャ北東部からトルクメニスタンあたり)に進出しました。シャイバーニー・ハンはサファビー軍が大軍であったため決戦を避けホラサン地方の主要都市メルブに籠城します。イスマイール1世は、これを見ると退却に見せかけ軍を引きました。ウズベク軍はサファビー朝に戦意なしと判断し追撃します。ところが待ち伏せていたサファビー軍の伏兵に襲われ壊滅的打撃を受け敗北しました。総指揮官シャイバーニー・ハンも戦死します。

 イスマイール1世は余程憎しみが強かったのでしょう。シャイバーニー・ハンの首に金箔をはって酒杯にしたと伝えられます。なにか織田信長のエピソードのようですが髑髏杯というのは遊牧民族特有の文化です。ウズベク族もサファビー朝も同じトルコ系。金箔の髑髏杯はのちにオスマントルコのバヤジット2世に贈られたそうですが、同じ遊牧民とはいえ文化の違う(オスマン家はたぶんに西欧化していた)オスマン朝は、こんなものを貰ってとまどったと想像されます。


 シャイバーニー・ハンを失ったウズベク・ウルスはガタガタになっているはずでした。イスマイール1世も援軍を約束しバーブルに出兵を催促します。ようやくバーブルの悲願が達成されようとしていました。次回、新天地にご期待ください。