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遊牧国家はいつ滅亡したか? ウズベク3ハン国の滅亡

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 前記事でモンゴル高原の興亡を描いて以来遊牧国家に対する興味が尽きません。かつてチンギス汗のもとで欧亜にまたがる大帝国を築いたモンゴル民族。スキタイに始まり最後の遊牧帝国と呼ばれたジュンガル部まで、遊牧民族は世界史の主役ではないにしても、常に重要な役割を果たしてきました。
 
 では、最後の遊牧国家はいつ滅びたのか非常に興味を覚えたのが本記事を書いた理由です。
 
 高校世界史で皆さまが(私を含めて)おぼろげながら覚えているのは、ロシア帝国に滅ぼされたブハラ・ヒヴァ・コーカンドの三国でしょう。これらはウズベク3ハン国と呼ぶそうです。
 
 
 ウズベク族は、キプチャク汗国(ジュチ・ウルス)の子孫で、支配下遊牧民イスラム教に改宗させたウズベク汗に由来するそうです。
 
 後にムガール帝国を建国するバーブルをその故郷のサマルカンドから叩き出したシャイバーニー・ハーンのシャイバーニー朝もウズベク族の王朝。ちなみに、シャイバーニー・ハーンはイラン高原に興ったサファビー朝の創始者シャー・イスマイル1世と戦い1510年敗死しています。シャイバーニーは首を斬られその頭蓋骨は金箔を塗られて杯になったそうです。どこかで聞いた話だな(苦笑)。
 
 この我々から見ると気持ち悪い風習は遊牧民族の間ではよくある事だったそうです。イランももともとは遊牧民族ですから。
 
 
 ウズベク族とは最初モンゴル族ジュチの子孫とその配下を指しましたが、支配下イスラム化したトルコ系遊牧民全体を指すようになります。
 
 最初に、ウズベク3国の由来を見て見ましょう。
 
◇ヒヴァ・ハン国…シャイバーニー朝の一族、アラブ・シャーが建国。アラル海周辺が領土。
 
ブハラ・ハン国…1557年シャイバーニ朝イスカンダル・ハーンが都をブハラに移した後ブハラ・ハン国と呼ぶ。
 
◇コーカンド・ハン国…3ハン国では一番東に位置する。フェルガナ盆地が中心。ウズベク族ではあるが君主は
              チンギス汗の血をひかないミング部族から出ている。
 
 
 これらはロシア帝国の東方侵略にともない次々と征服されていきました。それも19世紀といいますから近世の出来事です。
 
 鉄砲の普及前圧倒的力を持っていた遊牧民族の騎兵ですが、ライフルと大砲で武装する西欧列強の軍隊とは相手にならないほど力が隔絶していたのです。
 
 ロシア帝国の侵略は、大英帝国との中央アジアを巡る植民地戦争所謂グレートゲームの過程で起こりました。
 
 最初に餌食になったのは意外にも最も東に位置するコーカンド・ハン国でした。一時清国を圧迫するほど強大化したコーカンドでしたが、国内のキルギス人、カザフ人の反乱が絶えず国力が衰え隣国ブハラの傀儡国家になって弱体化していた所にロシアが目を付けたのでしょう。
 
 コーカンドはイスラムの盟主であるオスマン帝国や、インドからアフガニスタンを窺っていた大英帝国と結んでロシアと対抗しようとしましたがロシアの近代的軍隊に完敗、1868年ロシアと保護条約を結び属国とされます。1876年にはロシア軍がコーカンドに入城、これを滅ぼしました。
 
 同じ1868年、ロシア軍はブハラ・ハン国の重要都市サマルカンドを占領します。続いてロシア軍はブハラ全土に侵攻、これでブハラも滅亡しました。
 
 最後まで残ったヒヴァでしたが、その運命は極まっていました。1873年ついに力尽きロシアの保護国に転落、遊牧国家の歴史に幕を閉じたのです。
 
 
 かつて欧亜にまたがる大帝国を築き上げた遊牧国家の末路は哀れを誘いますね。しかも滅ぼしたのは昔モンゴル帝国によって征服され属国にされていたロシア人ですから。それにしてもライフルの発達には改めて驚かされます。
 
 先込めのマスケット銃だったら、次弾装填の間に騎兵が殺到するチャンスもあったと思いますが、この頃には元込め銃が主流になっていましたから速射性で騎兵の突撃を防ぐ事ができましたし、一部にはより近代的なボルトアクションライフル(ドライゼ銃は1836年)さえ登場していました。もし接近できても白兵戦も銃剣があるため騎兵の優位は保てません。
 
 ロシア軍は、方陣をいくつも作りライフルの射程内に収めて互いをカバーし合ったため遊牧民の騎馬軍団は付け入る隙がなかったそうですよ。