鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

サファヴィー朝Ⅱ  神童

イメージ 1

 第5代教主ジュナイドの時代、サファヴィー教団軍事力の中核となったアナトリアのトルコ系遊牧民たちをキジルバシ(赤い頭)と呼びました。これは彼らが、尖がった赤い帽子の周りに12イマームを象徴する12の襞があるターバンを巻いていたからです。

 彼らはセルジュークトルコがビザンツ帝国に勝利しアナトリアに進出した時について行ったオグズ(トルコ系、トルクメン人の祖)たちで、この中から黒羊朝、白羊朝、オスマン朝などが出てきます。ジュナイドが教主争いで叔父に敗北しアナトリア高原に亡命した時信者に加わった遊牧民たちですが、シーア派のサファヴィー教団の教義を理解したとは思えません。それよりもジュナイドの方が、遊牧民たちを味方につけるため、彼らのトルコ的信仰(上天【テングリ】信仰など)を取り入れ教義を世俗化したと言われます。

 敬虔なイスラム教徒であるアラブ人と違って、トルコ人はこういうよくいえば融通無碍(悪くいえばいい加減)なところがあります。私がサファヴィー教団の教主一族をトルコ系と断じる根拠もこれです。しかしこの現実主義は教団の拡大に大きく役立ちました。時の権力者白羊朝も、サファヴィー教団を無視できなくなりスルタン、ウズン・ハサンは自分の娘アーラム・シャオをジュナイドの息子で第6代教主ハイダルに嫁がせました。このアーラム・シャオはトレビゾンド帝国皇女を母としていましたからギリシャ系の風貌をしていたと思います。

 政略結婚でサファヴィー教団を取り込もうと考えていたウズン・ハサンですが、間もなく弾圧に転じます。ジュナイドとその息子ハイダル、さらにハイダルの長男シャイフ・アリーまでもが白羊朝やその同盟者との戦いで命を落としました。ハイダルの次男で当時わずか7歳のイスマイールは教主となってまもなく本拠アルダビールを追われ、アルダビール州の南隣でカスピ海沿いのギーラーン州に潜伏します。

 世界史に詳しい方は、イスマイールではなくイスマ―イールと書くべきではないかと思われるかもしれません。ただこれは言語感覚の違いでイスマイルと表記したりイスマ―イールと書いた本もあります。ヘブライ語のイシュマエル (Ishmael) のアラビア語形(アラビア語: إسماعيل、ラテン文字表記:IsmailまたはIsmaeel)ですから、私はラテン文字表記を重視してイスマイールとしました。これは中世ペルシャ語の王名シャプールをシャープールと書くのと同様で、どちらにしても外国語を日本語に翻訳する時の言語感覚の違いと言うしかありません。ちなみに、言語学者の方によると中世ペルシャ語に一番近い日本語表記はシャープフルだそうで、シャープールよりは私のシャプールの方がより近いのかなとは思います。

 わずか7歳の少年イスマイール(1487年~1524年)にサファヴィー教団を纏める力があったのか疑問ですが、弾圧を受ければ受けるほど内部が団結する人間心理と、彼のカリスマ性もかなり寄与していたのではないかと考えます。雌伏5年、イスマイールがギーラーン州ラシュトの町を出たのは1499年でした。この時でさえイスマイールは12歳、教団幹部の補佐があったとはいえ驚くべき神童ぶりを発揮します。イスマイールはアナトリア高原各地に広がる信者たちに檄を飛ばしました。集合の地と定められたトルコ東部エルジンジャンの町に終結したキジルバシは7000騎だったと伝えられます。キジルバシたちは少年教主イスマイールに無視の忠誠を誓いました。

 宗教的熱狂に駆られたサファヴィー軍は、弾圧者白羊朝に戦いを挑みます。英主ウズン・ハサンを失い家督争いで分裂状態にあった白羊朝にこれを防ぐ力はありませんでした。これはあくまで私個人の想像ですが、白羊朝の中にも相当数サファヴィー教団の信者がいたのではないかと考えます。これでは統一した防衛などできないはずです。結局1501年、アゼルバイジャン地方の主邑で白羊朝の首都でもあったタブリーズはサファヴィー軍によって陥落します。この年を持ってサファヴィー朝が成立したとされます。イスマイールは即位しイスマイール1世となりました。

 その後も各地に残った白羊朝の残党との戦いは続きますが、数年もしないうちにメソポタミア地方、イラン地方が完全にサファヴィー朝の手に落ちます。もはやイスマイール1世とキジルバシ軍団に敵なしという状態です。ところが東の隣国トランスオクシアナ地方には、同じ頃トルコ系の有力国家が成立しつつありました。すなわちウズベク族の首長ムハンマド・シャイバーニー・ハンの打ち立てたシャイバーニー朝(ウズベク・ウルス)です。

 両者の戦いは過去記事『バーブルとムガール朝興亡史』で詳しく記したので、ここでは簡単に紹介するに止めます。発端はイラン北東部ホラサン地方を巡る争いでした。これにシャーバーニー・ハンに追われたティムール帝国の亡命王子バーブルが関わります。バーブルは、独力でシャイバーニー・ハンに対抗できないため1510年サファヴィー朝に泣きつきました。この時イスマイール1世はまだ23歳。それに4歳年長のバーブルが泣きついたんですから、傍から見たら滑稽でした。

 シャイバーニー・ハンは若造であるイスマイール1世を舐めていたのかもしれません。ただキジルバシの軍事力を警戒しホラサン地方の大都市メルブに籠城しサファヴィー軍の出方を見ました。長期戦になる事を嫌ったイスマイールは一計を案じます。包囲を解き、わざと潰走したように見せて退却しました。これをシャイバーニー・ハンはサファヴィー軍中に異変があったのだと解釈し追撃します。戦上手として名高かったシャイバーニー・ハンにしては珍しい判断ミスですが、敗北する時は得てしてこういうものでしょう。

 伏兵を置いて待ち構えていたイスマイールは、ウズベク軍が罠にかかるのを待って一斉攻撃を命じました。戦いは一方的虐殺となります。油断していたウズベク軍は大敗し、シャイバーニー・ハンも討ち取られました。イスマイールの憎しみはよほど強かったのでしょう。シャイバーニー・ハンの頭蓋骨に金箔を貼り酒杯にして辱めたそうです。現代人の感覚から見ると異様ですが、敵の首を酒杯にするというのは遊牧民独特の文化で宗教的意味もあるとされます。このエピソードを見てもサファヴィー家がイラン系というのは有り得ないと思います。イラン人も確かに出自は遊牧民でしたが、文明化しこのような蛮行はしなくなっていたと考えます。髑髏杯はトルコ系あるいはモンゴル系遊牧民的風習のような気がするのです。

 英傑シャイバーニー・ハンの死を持ってもシャイバーニー朝は滅びませんでした。シャイバーニーの甥バイドゥッラー・ハン(1485年~1540年)の下で再結集したウズベク族は、力を盛り返しサファヴィー朝の後援を受けたバーブルをトランスオクシアナから叩き出します。バーブルが、サマルカンド奪還を諦めインドへ進出しムガール帝国を築いたのはこの後です。

 トランスオクシアナは、永遠にサファヴィー朝の手から失われウズベキスタンとなりました。さらにウズベク族はホラサン地方にも進出しこの地をサファヴィー朝と分け取るようになります。以後、ウズベク族とサファヴィー朝の小競り合いは続きますが、本当の脅威は西から来ました。



 次回、アナトリア西部に勃興した巨人オスマン帝国とイスマイール1世の『チャルディラーンの戦い』を描きます。