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近代中東史Ⅲ  ワッハーブ王国からサウジアラビアへ

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 18世紀初頭、アラビア半島中央高原地帯ナジュド地方に一人の改革者が現れます。彼の名はムハンマド・イブン・アブドルワッハーブイスラム法学派で最も厳格なハンバル派に属し、今のイスラム教は腐敗しているので原点に踊るべきだと主張します。復古主義純化主義を提唱し現在のイスラム原理主義のはしりともいえる改革運動でした。
 
 ナジュドの豪族ムハンマド・イブン=サウードはこれに共鳴し軍事的・宗教的にワッハーブ派を後援しました。イブン=サウードはワッハーブ派イマーム(宗教指導者)を兼任したためこれをワッハーブ王国と呼びます。えてしてこういう改革運動は、既存の宗教環境に飽き足らない人々の心を捕え急速に拡大するものですが、この第1次ワッハーブ王国も南部を除くアラビア半島全域に広がりました。
 
 1802年ワッハーブ軍がヒジャーズ地方に進出しメッカ、メディナなどイスラム教聖地を陥れたため当時この地方を支配していたオスマン帝国は非常な衝撃を受けます。ところがその頃オスマン帝国は独力で討伐する国力がなかったため、属国エジプトのムハンマド・アリーワッハーブ王国討伐を命じました。野心家であったムハンマド・アリーはエジプト勢力拡大のためにこれを最大限利用します。
 
 エジプト軍は、1817年ナジュドに進撃、首都ディルイーヤを包囲しました。戦いは数カ月の後首都陥落で終わりサウード家ワッハーブ教団幹部はトルコの首都イスタンブールに連行され処刑されます。これが第1次ワッハーブ王国の滅亡です。
 
 しかしサウード家の残党は健在で、本拠をリヤドに移し第2次ワッハーブ王国を建国します。これは1824年から1891年まで続きますが、内紛の末ナジュド北部ラシード家のジャバル・シャンマル王国に実権を奪われ滅びました。ワッハーブ王国最後の王アブドゥッラフマーン・ビン・ファイサル・アール=サウードは息子アブド・アルアジーズ・イブン・サウードと共に、クウェートの首長ムバラク・ビン・サバーフの元に亡命します。
 
 現在でこそクウェートは莫大な石油利権で潤っていますが当時は微々たる小国で、オスマン帝国とイギリスの間に挟まって対応を苦慮していました。ラシード家がオスマン帝国の力を背景にクウェート港奪取を図ると、ムバラクは単独でこれに対抗できないために英国に頼りました。
 
 ラシード家は、クウェート港を諦めきれず今度はドイツを頼んでクウェートに圧力をかけてきました。ドイツも3B政策でバグダード鉄道の終点をクウェートにする予定でしたからこれに応じます。危機感をもったムバラクはイギリスに泣きつき、英地中海艦隊が攻め寄せたラシード軍に海上から砲撃を浴びせる事件も起こりました。1901年の事です。
 
 ラシード家に復讐を誓うムバラクは、自己の庇護下にワッハーブ王国の生き残りアブド・アルアジーズ(1880年~1953年)がいる事を思い出します。彼に援助を与えラシード家を叩く事は自分にほとんど被害を受けず復讐できるのです。もし失敗してもクウェートには痛手がない(援助した分以外は)のですから、これほど良い事はありません。
 
 この時アブド・アルアジーズ21歳。2メートル近い巨漢で目つきの鋭い若者でした。現代人というより中世の英雄物語の主人公とも言うべき風貌を持っていたと伝えられます。アブド・アルアジーズはムバラクから駱駝30頭、小銃30挺、若干の軍資金の援助を受け、ワッハーブ王国の遺臣数十人とともにクウェートを出発しました。
 
 噂は瞬く間に広がり、ラシード家やトルコ官憲の追及を受けます。一行は捕縛を避けるため南方のルブアルハリ砂漠に逃れました。死の荒野での逃亡劇は50日。ラシード家もトルコもアブド・アルアジーズたちは死に絶えたと判断します。ところが1902年1月15日、一行はリヤド南方10キロの地点にある丘陵に突如姿を現しました。
 
 アブド・アルアジーズは従兄弟ジルーウィーほか6人をよりすぐってリヤド城内に夜陰に乗じて侵入します。一行8人は、ラシード家のリヤド太守アジュラーンの館に向かいました。夜明け、アジュラーンが広場で馬を検閲している最中、突如襲いかかった一行はアジュラーンほかラシード家の役人や兵士たちを攻撃します。不意を突かれたラシード家の者たちは満足な対応もできず、次々と討たれました。旧主アブド・アルアジーズが帰ってきた事を知ったリヤド市民は、ラシード家の圧政に不満を持っていた事もあって次々と武器を持って馳せ参じ、生き残っていたラシード家の者どもを虐殺します。
 
 20世紀の出来事とは思えない戦国時代のような奪取劇でリヤドの主人となったアブド・アルアジーズ。生きていた父アブドゥッラフマーンは息子アブド・アルアジーズに王位を譲り自分はイマーム(教主)の称号のみを保持しました。アブド・アルアジーズの王国は第3次ワッハーブ王国とも言えましたが彼は事さらにワッハーブ派の教義を強調せず普通の王国を標榜したのでこれをサウード王国と呼びます。
 
 王位に就いたアブド・アルアジーズにとって最初の仕事は宿敵ラシード家との対決です。ラシード家も同じ考えでしたので両者の激突は時間の問題でした。1903年ラシード家はまずクウェートを討ってサウード王国と連絡を断つ作戦に出ます。アブド・アルアジーズは1万の兵力を率いてクウェート救援に向かいますが、これは罠で突如進路を変更したラシード軍はリヤドを急襲します。
 
 リヤド市民は必死に防戦し、ラシード軍を退けました。この戦いでラシード家の攻勢は止まり以後要害を固め守勢に立ちました。ラシード家はトルコ帝国と結びサウード王国と対抗します。一方サウード王国はクウェートを通じてイギリスと結びこれに応じました。
 
 当時のアラビア情勢は混沌として、イギリス内部にもアブド・アルアジーズの将来性を認める勢力もありましたが、イギリスの対アラビア政策はヒジャーズフサインを応援してトルコ帝国に反抗させるという方針が大勢となりました。アブド・アルアジーズはこういう大国の思惑を上手く利用し自国の勢力拡大に努めます。
 
 ちなみに、フサインを支援していたのが英中東軍なら、アブド・アルアジーズを支援していたのは英インド総督府、英印軍でした。1921年、ついに宿敵ラシード家を滅ぼしたアブド・アルアジーズはアラビア中央高原の覇者となります。しかし、フサインを支援する英国との戦力差を冷静に分析しこれとは表立って対立しない方針を定めます。そうしながら英国とフサインヒジャーズ王国の関係が薄くなる機会をじっと待ち続けました。
 
 その機会は意外と早くやってきます。全アラブを独立させ自分がその王になる事を夢見ていたフサインは、英仏が第1次大戦後の中東世界分割を決めたサイクス=ピコ協定の前にその夢を打ち砕かれイギリスとの関係も微妙となっていました。アブド・アルアジーズはこの絶好の機会を見逃しませんでした。今ならイギリスの介入はないと踏んだのです。イギリスにとっても目障りなフサインヒジャーズ王国はむしろ滅んだ方が望ましいと考えていると予想します。
 
 彼の判断は間違っていませんでした。1925年、大軍をヒジャーズ地方に派遣しヒジャーズ王国を滅ぼしても列強の介入はなかったのです。むしろイギリスは秘かにアブド・アルアジーズによるアラビア統一を黙認していたふしもあります。1927年、アブド・アルアジーズはイギリスとジェッダ条約を締結。ナジュド王国の独立を認めさせイギリスと友好関係を結びました。
 
 1931年、アブド・アルアジーズはナジュド王国ヒジャーズ王国の統合を宣言、翌1932年には国名をサウジアラビアに変更します。これが現在まで続くサウジアラビア王国です。1938年ダーランでダンマン油田が発見されると砂漠の貧しい遊牧国家は一気に富裕な国に変貌、現在に至っています。
 
 それにしても、20世紀に英雄物語のような建国をした国家が現在でも続いている事は不思議でもあり、歴史のロマンを感じさせます。