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チューダー朝Ⅰ チューダー家の出自

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 イギリスはブリテン島のイングランドウェールズスコットランドと北部アイルランドから成る連合王国です。日本のイギリス呼称の語源はポルトガル語のイングレスから来ていますが、これはイングランドの事です。外国からはイギリスの中心がイングランドとみられている証拠なのですが、ウェールズスコットランドの人は気分が悪いでしょう。

 19世紀から20世紀にかけてイギリスは太陽の没せぬ国と称えられるほど繁栄した超大国でした。ただイギリスは一朝一夕に成ったのではありません。最初は貧乏な島国だったイギリスが大国になったきっかけはヘンリー7世から始まりエリザベス1世で終わるチューダー朝(1485年~1603年)だったと考えます。本シリーズではヘンリー7世の王朝樹立、ヘンリー8世の国教会創設のいきさつ、エリザベス1世の治世を描こうと思っています。

 イングランド北部(ブリテン島全体から見ると中部)、マンチェスターの北北東160キロあたり、ノース・ヨークシャー州にリッチモンドという地方都市があります。市街地の南西にはリッチモンド城がありました。現在では外壁だけが残り内部は更地になっていますが、中世この地にはリッチモンド伯領が存在しました。初代領主はブルターニュ公エオン1世の子アラン・ルーフス(赤卿)。その後何回か領主は変わり、最後の7代目リッチモンド伯に任命されたのはヘンリー6世により叙爵されたエドモンド・チューダー(1430年~1456年)でした。

 チューダー家はエドモンドの父オウエン・チューダー(1400年頃~1461年)の代に急速に勃興した家です。チューダー家はウェールズが発祥の地でウェールズ君主の血を引く名門でしたが、オウエンの時代すっかり没落しヘンリー5世の未亡人キャサリン・オブ・ヴァロワ王太后(ヘンリー6世の母)の納戸係秘書官を務める下級貴族になっていました。

 ところが、若くして未亡人になったキャサリン太后はなんと秘書官のオウエンと結婚してしまったのです。よほどオウエンの性格が良かったのか、あるいは美男子だったのかどうかは知りませんが、この結婚は枢密院から認められず二人の間に生まれたエドモンドは私生児扱いになります。ただ、とはいえヘンリー6世の異父弟であることには変わりなくエドモンドは1452年リッチモンド伯に叙されました。オウエンとキャサリン太后は他にジャスパーという男子をもうけます。

 時は薔薇戦争(1455年~1485年)の真っただ中。エドモンドの母キャサリンは1437年38歳で亡くなっていました。リッチモンドエドモンド・チューダーもわずか26歳の時、ヨーク派のハーバート家に捕らえられ南ウェールズのカーマーセン城に幽閉されます。そこで病を発し亡くなりました。エドモンドの妻マーガレットは、夫が幽閉されたとき身籠っており、夫の死の二か月後忘れ形見ヘンリーを生みます。

 ここで薔薇戦争について簡単に説明しましょう。薔薇戦争イングランド王位を争ったランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇を紋章としたことに由来します。どちらもプランタジネット朝の分家で、嫡流が断絶したために次の王位を狙って戦争を起こしたのでした。

 ヘンリー6世がランカスター家ですから異父弟エドモンドもランカスター家陣営。当然その子ヘンリーも含みます。一方、ヨーク家はエドワード4世が1461年内戦に勝利しランカスター家の王ヘンリー6世を廃位し即位しました。一時的にランカスター家が反撃し王位を奪われますが奪回。ただ1483年急死したため、弟リチャード3世に王位を簒奪されます。

 薔薇戦争は、イングランド中の貴族を巻き込み泥沼の様相を呈してきました。出生時すでに父がいなかったという運命の子ヘンリー・チューダー。彼はどのようにして王権を手に入れるのでしょうか?

 次回、ボズワースの戦いを描きます。