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チューダー朝Ⅲ ヘンリー7世の即位

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 1485年8月22日のボズワースの戦い。リチャード3世のイングランド軍8千、日和見のスタンリー兄弟軍6千を合わせても1万4千。一方リッチモンド伯ヘンリーの兵はわずか5千。同じ天下分け目の関ケ原と比べ随分と兵力が少ない印象を受けた方も多いと思います。

 それもそのはず。当時のイングランドの人口は350万弱。同時期の日本はすでに1600万を超えていました。これは小麦と米の収穫量の違いで、同じ面積の耕地でも養える人口が違っていたからです。外征兵力3%としてイングランドの兵力10万5千。ただこれは農民を動員しての数ですから、実際は生産力の面からも騎士と若干の徴募兵、傭兵を加えて最大でも数万規模でしか動かせません。加えてリチャード3世の王位継承が簒奪ともいえるもので暴政を布いたため人心はすでに離れていました。1万前後の兵しか集まらなかったのはこのような理由です。

 それでもリチャード3世の遺骸の傷を調べると頭蓋骨に致命的な戦傷がいくつも確認され勇敢に戦った証拠だとされます。シェイクスピアの歴史劇ですっかり極悪人の烙印を押されるリチャード3世ですが、言われるほどの悪人ではなかったのではないか?と近年再評価されているそうです。リチャード3世の評価は勝者リッチモンド伯ヘンリーに都合の良いように書き換えられた可能性もあります。

 ともかくヘンリーは勝ちました。が、すぐには即位できません。即位するには自身の正統性をイングランド国民に示さなければならないのです。彼は1486年婚約者だったヨーク家エドワード4世の長女エリザベス・オブ・ヨークとウェストミンスター寺院で結婚します。その際、ランカスター家の流れをくむ赤薔薇とヨーク家の象徴白薔薇を合わせたチューダー・ローズをチューダー家の紋章と定めました。薔薇戦争で対立した両家の確執を解消しようという意図です。

 その上で議会を動かし、リチャード3世によって私生児に落とされていたエドワード4世の子たちの名誉を回復し嫡出子に戻しました。ここでリチャード3世によって廃位させられロンドン塔に幽閉されたエドワード5世と弟ヨーク公リチャードはどうなる?と思った方も多いでしょう。ヘンリーとしては自身の正統性を担保するため妻エリザベスの名誉は回復しても、本来の正当な王であるエドワード5世が名誉回復されたら困るわけです。これがエドワード5世を暗殺したのはヘンリーではないかと疑われる理由でした。

 真相は歴史の闇ですが、周到な準備の末ヘンリーはウェストミンスター寺院イングランド国王に即位します。すなわちヘンリー7世です(在位1485年~1509年)。ただし即位はボズワースの戦いの前日1585年8月21日に遡ると宣言しました。これはリチャード3世に味方した貴族たちを反逆罪に問うためで、ヨーク派の多くの貴族が処刑されます。


 ヘンリー7世の即位は、彼の母系の血ランカスター家の傍流ボーフォート家によるものでしたが、正統性には疑義があり多くの者がイングランド王位を僭称し反乱を起こします。早くも1486年、ランバート・シムネル(1477年?~1534年?)がロンドン塔に幽閉されていたウォリック伯エドワードを騙り挙兵しました。ウォリック伯はリチャード3世の甥にあたりヨーク家最後の男系王位継承資格者でした。

 シムネルは、ウォリック伯がロンドン塔を秘かに脱出していたと称し、アイルランドの首都ダブリンのクライストチャーチ大聖堂で即位、エドワード6世と名乗ります。実はシムネルは美男というほかは取り柄がない全くの庶民でしたが、野心家ロジャー・サイモンに担ぎ上げられたのでした。講談で有名な天一坊事件の天一坊(シムネル)と軍師山中伊賀介(サイモン)の関係とそっくりですが、ヨーク派の残党はあえてこの嘘を信じたふりをし、ヘンリー7世に戦いを挑みます。なんと時のアイルランド総督キルキア伯ですら支持したと言いますから、それだけヘンリー7世に対する不満が大きかったのでしょう。

 ヘンリー7世は、この報告を受け1487年2月本物のウォリック伯を人前で公表しシムネルが真っ赤な偽物であると断じました。そのうえで大規模な恩赦を発表し人心の動揺を抑えます。追い詰められたシムネル一派はアイルランドで兵を集めます。これにリチャード3世の姉マーガレット・オブ・ブルゴーニュブルゴーニュのシャルル突進公に嫁ぐ)が2千のフランドル人傭兵を集めアイルランドに援軍として送り込みました。またヘンリー7世に追放されていたリンカーン伯もこれに加わります。

 偽王エドワード6世ことシムネル一派は、大軍が集まったことに気を良くしヘンリー7世を討つべく1487年ブリテン島に上陸しました。ここでもイングランド人が多く参加したそうですが、地元貴族はシムネル軍の危うさを感じ傍観します。

 6月16日、1万2千の軍勢を率いたヘンリー7世のイングランド軍とノッチンガムシャーのストーク・フィールドで激突。シムネル軍は8千いたそうですが、寄せ集めの悲しさ、歴戦のイングランド軍に敵うはずもなく完敗、ヨーク派のリンカーン伯、フィッツジェラルド卿、バウトン卿、フランドル傭兵軍隊長シュヴァルツなど主だった司令官が皆戦死しました。偽王エドワード6世ことシムネルは逃げ遅れたところを捕らえられヘンリー7世のもとに連行されます。

 シムネルがまだ10歳をちょっと超しただけの少年、しかも大人たちに利用されているだけだとしてヘンリー7世は命だけは助けました。冷酷なヘンリー7世にしては優しいところもあると思うのですが、その後シムネルを宮廷の厨房召使にしたそうです。シムネルは鷹匠になり1534年ころまで生きます。

 反乱はこれだけでは終わりません。1490年、今度はパーキン・ウォーベックという者がエドワード5世の弟ヨーク公リチャードを騙り蜂起します。ウォーベックはリチャード4世を名乗りました。これにもブルゴーニュ公妃マーガレットがバックアップをし軍勢を与えイングランドに送り込みます。ここまでくると、マーガレットというよりブルゴーニュ公シャルルの関与すら疑います。シャルルは宿敵フランスと対抗するため背後のイングランドを自陣営に引き入れたかったのかもしれません。

 この動きはスコットランド神聖ローマ帝国、フランスまで巻き込む大騒動となりますがヘンリー7世は冷静に対処しウォーベック軍を撃破。将来の禍根を断つため捕らえたウォーベック、ヨーク朝の正統王位継承資格者ウォリック伯エドワードを処刑します。エドワードは25歳の若さでした。ヘンリー7世はエドワードの姉でソールズベリー女伯マーガレット・オブ・プランタジネットも処刑しようとします。これは多くの廷臣の助命嘆願で許されますが、結局ヘンリー8世時代の1541年反逆罪の汚名を着せられ殺されることとなりました。ヨーク家の王継承資格者は生き延びられなかったのでしょう。彼女の死でヨーク朝の血は完全に絶えます。

 このようにヘンリー7世は即位後も席を温める暇もないほど内憂外患に苦しめられました。しかしそんな中でも彼は内政に力を尽くしました。厳しい徴税で財政を安定させ度量衡を統一。ネーデルラント自由貿易条約を結びます。当時ネーデルラントは毛織物工業の中心地で、ヘンリーはそこへイングランドの羊毛を輸出しようと目論んだのです。

 外交でもそれまで対立してきたフランスと融和政策を行い、急速に台頭してきたカスティリャアラゴン連合王国(後のスペイン)と結びます。司法では星室裁判所(星室庁ともいう)を設け貴族の横暴を押さえました。ヘンリー7世は、その不幸な生い立ちから猜疑心強く人を信じない冷たい性格になっていました。そんな彼が唯一心を許すのは肉親でした。特に長男王太子アーサーが温厚篤実な性格だったことから溺愛し、彼のためにアラゴン王フェルナンド2世、カスティリャ女王イサベル1世の娘キャサリン・オブ・アラゴンを嫁に迎えるほどの入れ込みようでした。1509年4月ヘンリー7世死去。享年52歳。






 欠点はあってもチューダー朝創始者ヘンリー7世は内政外交軍事でまずまずの名君だったと言えます。次回は、彼の息子ヘンリー8世の治世とイングランド国教会創設を描きます。