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チューダー朝Ⅳ ヘンリー8世とイングランド国教会創設

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 1501年イングランド南部プリマス港に見慣れない豪華な船団が入ってきました。上陸したのはスペイン王女キャサリン・オブ・アラゴンとそれに付き従ってきた数多くの従者たち。もちろん豪華な引き出物と一緒でした。イングランド国王ヘンリー7世の王太子アーサー殿下に輿入れするために来た一行です。

 スペインすなわち当時はカスティリャアラゴン連合王国。キャサリンの両親はカトリック両王と呼ばれたフェルナンド2世とイサベラ1世。1492年イスラム勢力最後の牙城グレナダ王国を滅ぼしレコンキスタ(国土回復運動)を完了したばかりでした。百年戦争でフランスにあった広大な領土を失い二流国に転落したイングランドと違い、日の出の勢いの国です。ヘンリー7世は溺愛する息子アーサーのために三国一の花嫁を迎えたわけです。むろん強国スペインと結ぶ外交的意図はあったでしょう。この時アーサーは15歳、キャサリンは16歳でした。

 ところがヘンリー7世が最も期待した王太子アーサーは、1502年粟粒熱であっさりと死去します。ままごとのような夫婦でしたがわずか1年でキャサリン寡婦となったのです。せっかく結んだスペインとの同盟を捨てる選択肢はヘンリー7世にはありませんでした。一時は自分がキャサリンと再婚することも考えたようですが、年齢差もあり世間体もあるので白羽の矢を次男ヘンリーに立てます。

 当時ヘンリー王子は11歳。わがまま一杯に育てられきかん気な少年はいきなり湧いて出た6歳も年上の姉さん女房を嫌います。しかし父ヘンリー7世は結婚を厳命、しぶしぶ従いました。兄の死によってヘンリー王子は王太子となりました。数奇な運命によって兄弟二人を夫としたキャサリンはその後イングランドに留まり51歳で亡くなったそうです。

 ヘンリー7世はイングランドの安定のために次々と政略結婚を進めました。1503年には自分の娘マーガレットをスコットランド王ジェームズ4世に嫁がせます。そうした中1509年4月21日波乱の生涯を閉じました。享年52歳。


 後を継いだのは王太子ヘンリー。即位してヘンリー8世(在位1509年~1547年)となります。18歳で即位したヘンリー8世の性格は良く言えば豪放磊落、悪く言えば強情短気で見栄っ張り。厳しい父7世の存命中は大人しくしていましたが、その歯止めがなくなるとどうなるか想像もできませんでした。

 実際、王妃キャサリンとの間に1516年メアリー(後のメアリー1世)をもうけますが、キャサリンの侍女アン・ブーリンを見初め関係を持ってしまいます。王妃が男子を生まないことに苛立ったヘンリー8世は王妃と離婚しアン・ブーリンと正式に結婚しようと画策しました。通常は簡単に離婚できないので王妃は(たとえ離婚したとしても)そのままとし愛人を作るのですが(例 フランスのアンリ4世ルイ15世)、この場合はアン・ブーリンが正式な結婚を求めたと言われます。

 ところが兄(アーサー)の妻を娶ったヘンリー8世に対しては、ローマ教皇が格別な赦免を与えて許した関係でしたので教皇クレメンス7世は離婚に難色を示します。しかも神聖ローマ皇帝カール5世にとってキャサリンは叔母にあたり、離婚は国際問題にまで発展しました。実際に交渉に当たっていたトマス・フルジーがいつまでも離婚許可を得られなかったことに激怒したヘンリー8世は、フルジーを罷免。1534年には国王至上法を発布し、なんとローマ・カトリック教会から離脱、自らを首長とするイングランド国教会を作りました。これには反発も多く、大法官トマス・モアはヘンリーの怒りを買い処刑されています。1538年教皇パウルス3世はヘンリー8世を破門しました。

 さて、こんなふざけた理由で創設されたイングランド国教会ですが、当時大流行していたプロテスタントかというとそうでもなく、カトリックプロテスタント双方の教義が入り乱れた鵺のような存在でした。1533年キャサリン妃との正式な離婚が成立。ヘンリー8世は晴れてアン・ブーリンと結婚します。キャサリン妃ヘンリー8世の意向を受けたカンタベリー大司教トマス・クランマーによってヘンリーとの結婚が無効とされました。結局前王太子(アーサー)妃未亡人に落とされ宮廷から追放されます。彼女と間に生まれた娘メアリーすら庶民に落とされるという過酷な処分でした。

 アン・ブーリンはまもなく娘を出産。エリザベス(後のエリザベス1世)と名付けられます。悲惨なのは異母姉メアリーで1534年王位継承法で継承資格を喪失、長ずると妹エリザベスの侍女にされるという酷さでした。失意の元王妃キャサリンは、キンボルト城に事実上監禁され1536年亡くなりました。

 無理に無理を重ねて正式に結婚したアン・ブーリンでしたがヘンリー8世が望んだ男子を死産したために寵を失います。彼女もまた、姦通罪の汚名を着せられ処刑されるのです。本当にヘンリー8世はどうしよもない国王でした。1536年アン・ブーリン処刑の10日後には彼女の侍女だったジェーン・シーモアと結婚します。そういう性癖だったのでしょう。この時点でエリザベスもまた庶民に落とされました。うがった見方をすれば新しい愛人シーモアのために邪魔なアン・ブーリンを殺したとも言えます。ジェーン・シーモアは1537年待望の男子エドワードを生みますが産褥熱で死亡。彼女だけがまともな最期だったとも言えます。

 結局ヘンリー8世は、生涯で6度結婚します。妻たちの過酷な運命を簡単に記すと4番目の妻アン・オブ・クレーヴスは結婚前別の男と婚約していたことを咎め追放、5番目の妻キャサリン・ハワード姦通罪で処刑、6番目で最後の妻キャサリン・パーだけが王の死で破滅を免れました。彼女は女癖の悪いヘンリーの妻にしてはできた女性で敬虔なプロテスタントでした。彼女のおかげで庶民に落とされていたメアリー、エリザベスの姉妹は王女の身分に戻され、エドワードの下位ながら王位継承権も復活しました。

 ヨーロッパ諸国がカトリックプロテスタント宗教戦争で苦しむ中、イングランドではヘンリー8世がこんな馬鹿なことをしていたのです。辺境にあったのが幸いしたとしか言えません。晩年ヘンリー8世は肥満し健康を害します。1547年荒淫暴食の末55歳で亡くなりました。

 後を継いだのは唯一の男子エドワード6世。わずか9歳の少年でした。




 次回は、チューダー朝の混乱、そしてエリザベス1世の即位を描きます。