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チューダー朝Ⅴ エリザベス1世立つ

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 ヘンリー8世は傲慢短気で女癖の悪い最悪の性格を持った国王でした。にもかかわらずイングランドが破綻しなかったのは暗愚ではなかったからです。もし暗愚だったら離婚問題で揉めたときローマカトリック体制を離脱しイングランド国教会を作るなど思いもよらなかったでしょう。

 皮肉なことに、国教会樹立はイングランド外交にフリーハンドを与えることになります。状況によってカトリックに付くもよし、プロテスタントに味方してもよしです。国教会の性格がどちらかはっきりしないのも逆に好都合でした。ヘンリー8世の時代、混乱したのは宮廷内だけで庶民に迷惑がかかることはほとんどありませんでした。加えて財政部門を中心に行政改革が進められたのも大きかったと思います。

 例えばトマス・モア(1478年~1535年)。『ユートピア』の著述で知られる人文主義者、法律家、思想家です。1504年下院議員に選出され政界に進出。ヘンリー8世に起用され官僚としては最高位の大法官まで出世しました。熱烈なカトリック信者だったモアはヘンリー8世が1534年国王至上法を制定しカトリックから離脱、イングランド国教会を作ろうという動きに抗議し大法官を辞職します。ヘンリー8世はこれを憎みモアを投獄しました。1535年7月斬首刑。これはイギリス史上最悪の法の名の下に行われた暗黒犯罪だと言われます。

 強烈な個性を持ったヘンリー8世が亡くなった時、王太子エドワードはわずか9歳でした。即位してもエドワード6世(在位1537年~1553年)が自ら統治できるはずありませんから、母の兄サマセット公エドワード・シーモアが摂政・護国卿として実質的に国を動かしました。

 サマセット公はエドワード6世スコットランド女王メアリー・スチュアートと結婚させることを画策しスコットランドに戦争を仕掛け拉致を図ります。しかし大失敗しメアリーはフランス王太子フランソワ(のちのフランソワ2世)に嫁ぎました。失政を重ねたため1549年失脚、その後紆余曲折かあるも1552年大逆罪が確定し死刑となります。

 代わって台頭したのはノーサンバランド公ジョン・ダドリーでした。このダドリーもろくでもない男で、エドワード6世が重病に陥るとその死後を考え画策します。従来の王位継承順位だとエドワード6世の後はメアリー、エリザベスの順番でした。ところがダドリーは自分の6男ギルフォードをエドワードの従姉ジェーン・グレイと結婚させ、王に迫りジェーンを強引に後継者とさせます。1563年7月6日病の床にあったエドワード6世は15歳で永眠しました。

 エドワードの異母姉メアリーは、この動きを察知し逃亡します。ダドリーはジェーンを即位させました。彼女はイングランド史上最初の女王となります。ただ、こんなことが通用するはずもなく心ある廷臣はメアリーを支持しました。メアリー王女は7月10日フラムリンガム城で同志を集め挙兵。ダドリーはこれを討伐すべくロンドンを出発しますが、正統性を失っていたため脱走兵が相次ぎます。そればかりか一度はダドリーの威勢に押されジェーン即位を認めた枢密顧問官たちですら、ダドリーがいなくなると次々とメアリーに寝返りました。

 進退窮まったダドリーはメアリーを女王と認め降伏。大逆罪に問われ裁判で死刑を宣告されます。1553年8月22日斬首。傀儡として担ぎ上げられていたジェーンも捕らえられ1554年2月12日夫ギルフォードと共に処刑されました。ジェーンわずか16歳、9日間の女王と呼ばれます。

 こうして即位したのがメアリー1世(在位1553年~1558年)でした。メアリーは母キャサリン・オブ・アラゴンの影響で熱烈なカトリック信者となります。母を追放したアン・ブーリンとその娘エリザベスを憎み冷遇、ついにはプロテスタントと共謀し反乱を画策したとしてロンドン塔に幽閉しました。エリザベスは無実だったと思いますが、メアリーの憎しみはプロテスタントに向けられます。

 メアリー1世は、父ヘンリー8世の政策を覆しカトリックに復帰。そればかりかプロテスタントを迫害し女子供を含む300名を処刑しました。以後彼女は「ブラッディ・メアリー」と呼ばれます。対外政策では母方の親戚スペインのフェリペ2世と結婚しました。フェリペ2世は彼女の11歳下で政略結婚以外の何ものでもありませんでしたが、1556年フェリペ2世スペイン王に即位するため一時帰国、1年後には戻ったものの3か月で再び帰国しその後二度と会うことはありませんでした。

 逆にスペインと同盟したことでイングランドはスペインとフランスの戦争に巻き込まれ百年戦争以降唯一残った大陸領土カレーを失うことになります。失政続きのメアリーは、自らの健康を害し死期を悟るようになりました。フェリペとの間に子をなさなかったため、後継者は異母妹エリザベスしかいませんでした。ところが彼女は妹の後継者指名を最後まで拒みます。死の数日前、ようやく渋々認めたくらいでした。1558年11月17日卵巣腫瘍を悪化させメアリー1世崩御。享年42歳。彼女の命日は圧政から解放された日としてその後300年も祝われました。

 しかし近年、メアリー1世再評価の動きも出ています。カトリック復帰も、それほど反対の声が上がらなかったのはヘンリー8世の国教会創立が強引すぎて支持されていなかった証拠でしょう。


 ともかく、エリザベス1世(在位1558年~1603年)は即位しました。25歳の若き女王です。一時はロンドン塔に幽閉され死も覚悟したでしょう。異母姉メアリー1世が死去しなければいずれ断頭台の露と消えていたはずです。青春時代の壮絶な経験が、彼女のその後の人生を決めたのかもしれません。



 弱小国家イングランドを列強の一角に押し上げるのは彼女でした。次回、最終回アルマダ海戦を記すことにしましょう。