ランカスター家、ヨーク家という王位継承権を持つ王族の争い薔薇戦争。30年続いた内戦は後半ヨーク家の優位が定まってきました。一度はランカスター家に王位を奪われたエドワード4世が実力で王冠を奪い返し復位します。ランカスター家の王ヘンリー6世はロンドン塔に幽閉され殺されました。
エドワード4世は、ランカスター派の弾圧を開始します。ヘンリー6世の異父弟リッチモンド伯ヘンリーとて例外ではありませんでした。すでに父エドモンドは彼の生まれる直前1456年11月ヨーク派に捕らえられ南ウェールズのカーマーセン城で獄死しています。ヘンリーの母マーガレットは名門サマセット公ジョン・ボーフォートの娘でした。ボーフォート家はランカスター家の傍系でエドワード3世の孫ジョン・ボーフォートの後裔です。ただジョンは私生児で従兄リチャード2世(プランタジネット朝最後のイングランド王)からは、嫡出子として認められる代わりに王位継承権を放棄させられました。
こういった経緯から、ヘンリー・チューダーは母系で王位継承資格を持つもののその正統性に疑問符がつけられるという微妙な存在になります。チューダー家を巡る情勢が次第に不利になって行く中、唯一の頼りはウェールズでした。というのもチューダー家は古きウェールズ君主の血を引く一族だったからです。イギリスは土着のブリトン人すなわちケルト人の土地に、アングロサクソン、デーン人、ノルマン人といったゲルマン系諸族が侵略した歴史でした。イングランドから追い出されたケルト人の中には、フランスの中で人口希薄地だったブルターニュ半島に脱出するものも数多く居たそうです。ブルターニュという名前そのものがブリテン人の土地という意味です。
一方、島に残ったケルト人たちは次第に西に追い詰められました。これがウェールズで、イングランドのゲルマン人たちに征服され長い間雌伏を余儀なくされます。そんな彼らにとってチューダー家は唯一の拠り所だったのかもしれません。
当主エドモンドは失ったものの、その父オウエンやエドモンドの弟ジャスパーは健在でした。ヘンリーは幼少時叔父ジャスパーに保護されウェールズで過ごします。ところが1461年、ヨーク家のエドワード4世が即位しジャスパーは追放されました。ヘンリーはヨーク派のペンブルック伯ウィリアム・ハーバートに保護されます。が、今度は1469年ペンブルック伯も処刑されました。
1470年ランカスター家のヘンリー6世が復位するとようやくジャスパーは呼び戻されます。この時ジャスパーは甥ヘンリーを宮廷に連れて行ったそうです。1471年またしてもヨーク家が巻き返しエドワード4世復位。ランカスター家のヘンリー6世と王太子エドワードが処刑されました。エドワード4世は将来の禍根を断つためランカスター家に属する王位継承資格者を次々と粛清します。残った中で年長の資格者はヘンリーだけとなってしまいました。
当然魔の手はヘンリーにも及びます。生命の危険を感じたヘンリーは叔父ジャスパーに連れられフランスに亡命します。フランスのブルターニューに14年間潜伏しました。この頃イングランドに残った母マーガレットは名門ボーフォート家出身という事でヨーク派のトマス・スタンリーと再婚、息子ヘンリーをヨーク派のリチャード3世に代わる王位継承者とすべく運動しました。これが功を奏し、1483年エドワード4世の娘エリザベス・オブ・ヨークと婚約が成立します。ただ肝心のヘンリーはイングランドに不在、この婚約も将来どのようになるか全くわかりません。
ヨーク朝では、エドワード4世が1483年フランス遠征の準備中40歳で急死。息子エドワード5世がわずか12歳で即位しますが叔父である摂政グロスター公リチャードに簒奪されます。これが歴史上悪名高いリチャード3世(在位1483年~1485年)です。幼王エドワード5世は弟ヨーク公リチャードと共にロンドン塔に幽閉、病死したとも殺されたともいわれます。ここでヨーク公リチャードの名は覚えておいてください。後で出てきますから。
ヘンリーは亡命先ブルターニュ公フランソワ2世の後押しで何度かイングランド上陸を画策します。これを知ったリチャード3世は、ブルターニュ公国にヘンリーを追放するよう圧力を掛けました。ブルターニュを追われたヘンリー一行はフランス王ルイ11世に保護されます。当時、ルイ11世の政敵ブルゴーニュ公国にエドワード4世の娘マーガレットが嫁いでおりブルゴーニュはヨーク派でした。ルイ11世は、ブルゴーニュの力を弱めるには、同盟者のイングランドを叩くのが上策と考え、亡命してきたヘンリーに目を付けます。
人生何が幸いするか分かりませんが、おかげでヘンリーはルイ11世の全面バックアップを受け軍勢と装備を与えられました。ヘンリーはこれらを率い、ようやく念願のイングランド上陸を果たします。ランカスター家最後の希望であるヘンリーのもとに次々とランカスター派貴族が参陣しました。ヘンリー軍は、ウェールズのペンブルックシャーに上陸、イングランドへ進軍を開始します。ヘンリー軍には叔父ジャスパー、オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー等が加わっていました。スコットランド兵、ウェールズ兵も参陣し5千の兵力に膨れ上がります。
リッチモンド伯ヘンリー・チューダー上陸の報は間もなくリチャード3世にもたらされました。一応リッチモンド伯と書いてますが、この当時はヘンリーのリッチモンド伯の爵位は剥奪されており無官です。リッチモンド伯位はヘンリーが王位に就いた時自ら再叙任しました。リチャード3世は8千の軍勢を動員し迎え撃ちます。ヨーク派の有力貴族スタンリー卿ウィリアム、トマス・スタンリー男爵の兄弟も6千を率い続きました。トマス・スタンリーは前に出てきましたが、ヘンリーの母マーガレットの再婚先。つまりヘンリーの継父にあたるのです。その点を考えれば信用しきるのは危険でしたが、リチャード3世はそのような事には全く配慮せず、ただスタンリー兄弟の忠誠心に頼っていました。
1485年8月両軍はイングランド中部レスターシャーのシェントン、ダドリントンの間ホワイトムーア近辺でぶつかります。戦場に関しては諸説ありますが、近くの町の名前を取ってボズワースの戦いと呼ばれました。
8月22日リチャード3世の率いるイングランド軍はアンビオンヒルに布陣します。陣容は中央にリチャード3世の部隊、右翼(西側)やや突出した形でノーフォーク公の軍勢。左翼やや後ろに控えてノーサンバランド伯軍が続きました。遅れて着陣したスタンリー兄弟の軍6千は戦場の東南に離れて着陣。一方、劣勢のヘンリー軍はホワイトムーアに布陣。フランス傭兵、ウェールズ兵、スコットランド兵を中心に前面で密集隊形を汲み、ヘンリー直率の騎兵が後陣に控える形でした。
リチャード3世は、万が一スタンリー兄弟が裏切らないよう人質を取っていました。戦いは負けると後がない劣勢のヘンリー軍が必死に戦いリチャード軍を押します。ただ数に勝るリチャード軍は容易に崩れず戦闘開始から2時間たっても決着がつきませんでした。リチャード3世は、傍観を決め込むスタンリー兄弟に使者を送り参戦するよう命じます。この時リチャード3世は「命令に従わなければ、人質であるスタンリー卿の息子の首を刎ねる」と脅したそうです。ところがスタンリー卿の返事は「息子は他にもいる」でした。
実はスタンリー兄弟は秘かにヘンリーと内通していました。しかし戦いの結果がどう転ぶか分からないため日和見を決め込んでいたのです。そこへリチャード3世からの高飛車の要求。これで兄弟の心は決します。そればかりか、後方のノーサンバランド伯軍まで戦闘に参加しませんでした。
苛立つリチャード3世ですが、ヘンリーの本営が前線近くまで来ているのを見て彼さえ倒せばこの戦いに勝てると踏みます。リチャード3世は手元にいた数百の騎士を率いるとヘンリーの本営目掛け突撃しました。前線では乱戦でリチャード軍の指揮官ノーフォーク公が戦死します。リチャード3世は、ヘンリーの旗手を倒すほど肉薄しますが、この時スタンリー兄弟の軍がようやく動きだしました。ところがこれはリチャード3世に味方したものではなく、逆にヘンリー側に寝返っての動きでした。
リチャード3世は腹背に敵を受け壮絶な戦死を遂げます。享年32歳。戦場で倒れたイングランド王はヘースティングスでノルマンディー公ウィリアムに敗れたハロルド2世に続いて2例目でした。国王戦死を受けて、イングランド軍は総崩れになります。ヘンリーは勝利したのです。リチャード3世の死をもってヨーク朝は断絶。勝利者ヘンリーはこの時点で自らのチューダー朝を開く資格を得ました。
ただ正統性に疑問を持つ者も少なくなく、ヘンリーは即位後も統治の安定に苦しむこととなります。次回は、ヘンリーの即位とその後について語りましょう。