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近代中東史Ⅱ  ヒジャーズ王国の滅亡

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 19世紀までアラビア半島で最も重要な地域は、イスラム教の聖地メッカやメディナがありイエメンから紅海を通じてエジプトに至る交易ルートのあった半島西岸地域でした。ところが20世紀に入ってすぐ、ペルシャ湾岸地域で大規模な油田が次々と発見されるようになるとアラビア半島の最重要地域はペルシャ湾岸を中心とする東部地域に移ります。
 
 特に、イギリスはフィッシャー提督(ジョン・アーバスノット・フィッシャー 第一海軍卿 1841年~1920年)が世界に先駆けて軍艦の燃料に石炭から重油専燃への移行を強力に推進したためいち早く中東地域への進出を強めました。これは燃料効率を上げ軍艦の能力向上を目指した先見の明だったと言えます。
 
 ところでイギリスは、最重要植民地インドを守るため英印軍を置きます。インドは1900年当時で人口3億以上。世界各国の植民地でも群を抜くドル箱でした。英地中海艦隊もその担当地域はジブラルタルからスエズ運河、紅海、インドに至るインド洋という広大な範囲で第2次世界大戦ではとても守りきれない事から西地中海を担当するH部隊を置かざるを得ないほどでした。
 
 エジプトにあった英中東軍はスエズ運河防衛が最重要任務で、英印軍より一枚格が落ちる存在でした。英印軍はその正式名称をインド軍と呼びますが、白人のみで占める在印英軍と将校が白人兵士はインド人というインド(現地)軍の二つで構成されます。数の上では後者が圧倒的で第1次大戦でも第2次大戦においても各地に派遣されました。
 
 イギリスの中東政策は、中東軍と英印軍の双方からアプローチされ中東軍におけるそれがロレンスらを使ったフサイン工作なら、英印軍は英国インド政府の意向を受けて主にペルシャ湾岸諸国への工作を担当しました。おそらくこの地域にもロレンスに匹敵する工作員を派遣していたはずですが、それが表面化しなかったのは工作が成功したからにほかなりません。実際、第1次大戦中イラク地域には英印軍10万が派遣され現地トルコ軍と激闘を演じています。中東地域においては英中東軍と英印軍の石油を巡る主導権争いが水面下で激しくなっていたという事実を踏まえて読み進めて下さい。
 
 第1次大戦後、この地域に英委任統治領のイラク王国ヨルダン王国が誕生した事はすでに述べました。それ以外にクウェート王国、バーレーン土侯国カタール土侯国、トルーシアン諸国(現在のアラブ首長国連邦)などが湾岸地域に次々と出来ます。これらはイギリスと特殊条約を結びイギリス傘下の諸国といっても良い存在でした。
 
 ところでアラビア半島中央部ナジュド地方(現在のサウジアラビアの首都リヤド周辺)にはアブド・アルアジーズ・イブン・サウードが宿敵ラシード家との抗争に打ち勝ち独自の勢力圏を築いていました。といってもどこか外国からの援助がなければここまで急速に拡大する事はあり得ないですから、私は中東軍がフサインを利用したように英印軍もアブド・アルアジーズに秘かに援助を与えていた可能性を考えています。というのもナジュドペルシャ湾岸の後背地にあたり、重要な油田地帯を守るには絶対に確保しておかなければならない地域だったからです。
 
 イブン・サウード家の興亡は波乱万丈でそれだけで一本記事を書ける分量ですが、ここでは長くなるので述べません。ヒジャーズ王国の国王であったフサインから見ればアブド・アルアジーズは蛮族の親玉くらいにしか見ていなかったと思います。一方、アブド・アルアジーズはフサインをトルコの走狗からイギリスの走狗に成り下がったアラブの裏切り者としか見ていませんでした。二人の対決は時間の問題。これはヒジャーズ地域とナジュド地域の古代から続く地域対立も背景にありました。
 
 両者の対立は、1924年フサインが全イスラム教徒のカリフを宣言した事から決定的になります。もともとイブン・サウード家はイスラム教改革を唱えたワッハーブ教徒のワッハーブ王国から出ており、アリーの子孫とはいえ傍流に過ぎないハーシム家フサインごときがカリフを称するのは我慢のならない事でした。怒ったアブドは精兵を遣わしてヒジャーズ王国を攻撃しました。フサインの長子アリーの指揮するヒジャーズ軍は鎧袖一触、大敗して紅海沿岸のジェッダに逃げ込みます。メッカにいたフサインも、国軍が壊滅したために首都を捨てヨットでアカバに逃げ、さらにそこからキプロス島に亡命しました。
 
 ジェッダに粘っていたアリーも、イブン・サウード軍に町を占領されここにわずか建国7年にしてヒジャーズ王国は滅亡します。メッカに入城したアブド・アルアジーズはイスラム教改革派であるワッハーブ教徒がメッカの守護者である事を宣言、ヒジャーズのマリク(王)およびネジュドとその属領のスルタンを称します。こうしてアブド・アルアジーズはネジュドとヒジャーズ両方に君臨する国王となりました。1932年両国は統合されサウジアラビア王国となります。
 
 
 その後のフサインとその子供たちを描きます。まずフサインの長男アリー。ジェッダ陥落の後、弟ファイサルが国王となっていたイラクへ亡命。1935年バグダッドで客死します。次にフサイン。1930年亡命先のキプロスで病気になったフサインは次男アブドゥーラのヨルダン王国に引き取られました。アンマンで死去し遺体はエルサレムに葬られます。
 
 フサインの三男ファイサルは、イラク国王ファイサル1世を名乗りました。イギリスは当時イラクで多数派を占めるシーア派の反抗に悩まされていましたから、シーア派と関係の深いアリーの子孫ファイサルなら治められると期待し国王に抜擢したのです。ところがアリーの子孫とはいえ、スンニ派でしかもアリーの子孫はそれこそ掃いて捨てるほどいましたからイギリスの意図は成功したとは言えません。
 
 イラク国民はイギリス傀儡の国王ファイサルを支持せず、統治は相当苦労したと伝えられます。それでも1930年にはイギリス=イラク条約でイラクの独立を勝ち取り委任統治の期限が切れた1932年、国際連盟に加盟してようやく独立を達成しました。ただ実情はイギリス影響下であることに変わりなく、シーア派クルド人の反乱に悩まされながら1933年病気療養のために向かったスイスで客死しました。享年50歳。
 
 イラク王国ファイサル1世の孫ファイサル2世(在位1939年~1958年)の時に起こった1958年7月14日革命で自由将校団のクーデターを受け、家族を含めて一族全員が宮殿前に引き出されその場でことごとく射殺されました。わずか3代37年の命でした。結局ハーシム家に残ったのはヨルダン王国だけだったのです。