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イラワジ会戦における日英両軍戦闘序列

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 完全に趣味の記事です。おそらく一般の皆さんは聞いたこともないと思いますのでスルー推奨です。


 イラワジ会戦とは、1944年12月から1945年3月にかけてビルマの中央を流れる大河イラワジ河を巡り日英両軍によって戦われた一連の戦闘を指します。インパール作戦の失敗でインド方面への進出が頓挫しビルマ北部を通っていた援蒋ルート遮断を目的とした断作戦もフーコン谷地(フーコンとは死の谷の意)で菊兵団(第18師団)が、雲南では拉孟・騰越(らもう・とうえつ)の戦いで龍兵団(第56師団)が壊滅的打撃を受け敗退した事により守勢に回った大日本帝国陸軍ビルマ方面軍が、スリム中将率いる英印軍第14軍の攻勢を迎え撃った戦いです。

 イラワジ河中流マンダレーを中心にした地域の防衛作戦を「盤作戦」、ビルマ南部アキャブ方面の防衛戦を「完作戦」と呼びます。名前は格好良いもののその実態はこれまでの一連の戦闘で消耗しつくした日本軍が完全充足状態の英印軍の猛攻を必死に防ぐという絶望的なものでした。一例をあげるとインパール作戦敗退の痛手が回復していない第15軍隷下の第15師団で戦闘に参加できる兵数4000名、第31師団は6290名、第33師団で4300名など惨憺たるものでした。師団定数が15000名~20000名ですからその状況が理解できると思います。一説では方面軍全体でも稼働兵力が4万名を切っていたとも言われます。

 盤作戦は主に第15軍が担当し、完作戦は第28軍が受け持ちました。上の表を見ると師団数だけなら日本軍の方が多いですが、実態は英印軍の方が兵力的にも物量でも倍以上の力を持っていました。しかも制空権もビルマ方面を担当する第5飛行師団の稼働数がわずか64機ですから連合軍の物量に圧倒され続けます。連合軍はこの方面に1200機の航空戦力を投入しました。

 ビルマ方面軍は、英印軍のイラワジ河渡河攻撃を防ぐ事が出来ず橋頭堡を築かれてしまいます。中部ビルマの重要都市マンダレーも失陥しました。南方の完作戦はさらに悲惨でアキャブ失陥、ラムレー島への上陸も許してしまいます。追い打ちを掛けたのはイラワジ戦線の危機を受けて方面軍が第55師団を抽出したためこの方面は第54師団(兵【つわもの】兵団)のみで戦わざるを得なくなりました。

 しかし、さすがはノモンハン唯一不敗の連隊長でインパール作戦でも要衝コヒマを占領する(当時は第31師団歩兵団長・少将)など大活躍した名将宮崎繁三郎中将(師団長)です。アラカン山脈に撤退して粘り強く抵抗を続け兵力は半数以下に消耗したもののなんとかシッタン河東岸まで辿り着きました。おそらく指揮官が宮崎でなかったら兵兵団は全滅していたかもしれません。

 ビルマ方面軍は、各地で英印軍に包囲され絶望的な戦いを続けながらも敵中突破に成功しビルマ東部で終戦を迎えます。方面軍司令部はビルマ東部モールメンが最終到達地でした。