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日本の戦争11  インパール作戦1944年3月~1944年7月

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 ガダルカナル島を巡る日米の戦いは大東亜戦争の帰趨を決する重要なものでした。この戦いに敗北した日本は、攻勢に転じたアメリカ軍の攻撃を防ぐ一方になります。アメリカ軍は日本を攻めるために二つの攻勢軸を決めました。一つは太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将の指揮する米海軍・海兵隊を中心とするソロモン群島→内南洋→マリアナ諸島小笠原諸島→日本本土へと向かうニミッツライン。もう一つは南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将が指揮する米陸軍を軸としニューギニア→フィリピン→台湾→沖縄→日本本土へと向かうマッカーサーライン。

 どちらか一本だけでも日本の国力で防ぎきるのは不可能でした。それが二本もあるのはアメリカの国力を見せ付けられたようです。日本が早急にしなければならないのは南方資源地帯と日本本土を結ぶフィリピンと内南洋の防備強化、具体的にはサイパンパラオの要塞化でした。にもかかわらず日本陸軍は致命的な失策を犯します。インパール作戦です。

 インパール作戦に入る前に、此処に至る戦争の経過を述べましょう。

1943年4月18日 連合艦隊司令長官山本五十六大将、ブーゲンビル島上空で視察中待ち伏せを受け戦死。

1943年5月29日 アッツ島守備隊玉砕

1943年7月29日 キスカ島撤退作戦

1943年11月23日 マキン島、タラワ島守備隊玉砕

1944年2月6日 クェゼリン島日本軍守備隊玉砕

1944年2月17日 トラック環礁空襲、日本軍艦艇・航空機多数損害

 日本軍は、太平洋方面各地でアメリカ軍の攻勢を受け苦しい戦いをしていました。ビルマ方面では1942年5月にようやくビルマ国内から連合軍を駆逐していたものの、インド北東部アッサムからビルマ北部フーコン谷地を通って雲南に至る援蒋ルートは健在で、アメリカはこの拡大すら計画します。インド領に逃げてきた蒋介石国府軍兵士に米式装備を与え訓練した米式中国軍を編成しこの方面に投入してきました。またイギリスの特殊部隊ウィンゲート旅団もビルマ北部に跳梁跋扈しビルマ方面軍は対応に苦慮します。

 ビルマ西部防衛を担当する第15軍司令官牟田口廉也中将は、この難問を一気に解決する手段として日本軍がインド北東部に進出しここを占領すれば援蒋ルートの根本を断つ事が出来、蒋介石の国民政府を戦争から脱落させる事が出来ると考えます。そうなれば支那戦線に張り付いている50個師団を他方面に振り分ける事も可能で太平洋方面の軍事力強化にもつながるという主張でした。

 たしかにそれが可能なら理想的です。しかし地図を見てもらうと分かる通りビルマからインド北東部に入るにはビルマ有数の大河チンドウィン河を越えなければならないしさらにその先には6000m級の山々がつらなるアラカン山系が待ち構えます。道路など無きに等しいのでまず補給が困難でした。牟田口中将はジンギスカン作戦と称し羊や牛を連れていけば食料の問題は解決するし武器弾薬は敵から奪えば良いと豪語します。

 当然、ビルマ方面軍はもとよりその上級組織南方総軍、大本営もこんな無茶な作戦の許可は降りませんでした。しかし当時の陸軍(海軍も?)の悪習として積極的作戦には心情的に反対し辛いのです。牟田口は、東条首相や南方軍の寺内元帥、ビルマ方面軍の川辺正三(まさかず)中将などに心情的に訴え強引に作戦の許可を得てしまいます。第15軍参謀長小畑少将やビルマ方面軍の参謀が反対するとこれを更迭させるという強硬手段にさえ出ました。

 第15軍隷下の第31師団(烈兵団)佐藤幸徳中将は「作戦において十分な補給は得られるのか?約束できなければ作戦遂行は確約できない」と強硬に詰め寄りますが、逆に牟田口に戦意なしと叱責されるほどでした。佐藤師団長だけでなく第15師団の山内中将、第33師団の柳田中将もインパール作戦に反対します。近代戦の指揮官としては当然です。牟田口は軍司令官権限で強引にインパール作戦を実行させました。

 作戦計画はこうでした。第31師団(烈兵団)は北方ルートを進みインパールの北にある要衝コヒマを占領し英印軍の増援を防ぐ。第15師団(祭兵団)は中央ルートからインパールに突入。第33師団(弓兵団)は南方ルートからインパールに進撃し英印軍をインパールで包囲殲滅する。

 作戦は、1944年3月8日開始されました。日本軍はインド独立運動チャンドラ・ボースインド国民軍を編成させ第15軍に同行させます。しかしすべては泥縄でした。チャンドラ・ボースを利用するならもっと初期、海軍がインド洋作戦を実行した後。英東洋艦隊を殲滅した直後にインドへ侵攻すべきでした。そうすれば英印軍のインド人兵士の動揺を誘えるし、もしかしたら民衆を蜂起させインドを占領する事も可能だったかもしれません。ところが、日本の戦局が傾き始めた今は、インド侵攻よりビルマ防衛強化を図るべきだったと考えます。地形をみると英印軍のビルマ侵攻もアラカン山系越えは不可能、海上からの上陸作戦しかありません。防衛だけならビルマ方面軍は十分な兵力を持っていました。

 行軍の困難は最初から予想されていた通りでした。泥濘の悪路に嵌り重砲はすべて捨てなくてはならなくなります。牛や羊は、アラカン山系の崖で数多く死に期待された食糧確保の道は閉ざされました。牟田口は隷下部隊にわずか3週間分の食料だけを与えたのみでした。佐藤・烈兵団長が厳しく履行を要求した補給は実行されず、これがのちの抗命事件の遠因となります。

 それでも烈兵団は、歩兵団長(3個歩兵連隊基幹)宮崎繁三郎少将の活躍で4月6日コヒマ占領を実現しました。牟田口軍司令官は、この報告に狂喜し「引き続きディマプールに進撃すべし」と命じます。ディマプールは援蒋ルートの出発点となる要地です。しかしこれは最初の作戦計画には無かったものでした。補給もなく非常な困難の末コヒマ占領を果たした第31師団将兵は牟田口軍司令官への不信感を強くします。

 第15師団、第33師団もインパール市街を臨む周辺要地を占領し英印軍をインパールに包囲しました。ところがここで補給が尽きます。一方、英印軍は多数の輸送機によるピストン輸送で補給線を維持し包囲される側より包囲する側が飢え始めるという奇妙な現象が出現しました。

 インパール防衛を担当する第14軍司令官スリム中将は、増援を送りコヒマ方面の圧力を強化します。コヒマの第31師団は、西方山岳地帯で一進一退の攻防を続けますが、弾薬も食料も尽きこれ以上の継戦が物理的に不可能となりました。佐藤幸徳師団長は、軍司令部に「約束した補給はいつ来るのか?補給がこない場合は独断で撤退する事もあり得る」という最後通牒を牟田口軍司令官に付きつけました。牟田口がこれを無視したため、歴史に残る抗命事件を引き起こすのです。佐藤師団長は独断で撤退を命じました。佐藤中将は軍法会議で牟田口の無謀と無能を訴え共倒れしようという覚悟でした。部下の将兵を守るためのぎりぎりの決断だったと思います。しかし、撤退戦は侵攻戦より困難です。佐藤師団長は部下の宮崎歩兵団長に殿軍を命じました。

 宮崎少将は嫌な顔一つせずこれを承知します。そして隷下の部隊を巧みに指揮し困難な撤退戦を戦い抜きまました。宮崎少将の戦法は部隊を二つに分け一方が防いでいる間にもう一方が後方に陣地を築き交互に撤退するというものでした。この方法で数十倍の敵軍の攻撃を二週間防いだそうですから驚嘆します。

 同じころインパール南方で飢餓に苦しむ第33師団の柳田師団長も軍司令部に撤退の許可を求めました。これが牟田口軍司令官の逆鱗に触れ佐藤、山内、柳田の三師団長が作戦中に更迭されるという前代未聞の状態に陥ります。牟田口は、このころ安全な後方で芸者遊びをしていたそうですからその無責任さにはあきれ果てるしかありません。

 インパール作戦は第31師団(烈兵団)の独断撤退で事実上崩壊しました。ビルマ方面軍司令官川辺中将はこの事態を受け南方総軍に作戦中止の許可を訴え、7月4日ようやくそれが認可されました。こうなると諦めの悪い牟田口第15軍司令官も渋々承知せざるをえません。こうして歴史に残る愚かな作戦インパール作戦は中止されました。が、日本軍は撤退戦でも英印軍の追撃を受け大きな損害を出します。いや、戦闘よりも飢餓とマラリヤなどの風土病で倒れたものが数倍しました。撤退路は白骨街道と呼ばれるほど夥しい日本兵の死体が連なったと言います。参加将兵8万、そのうち死者行方不明者6万という惨憺たる結果に終わりました。

 日本軍は、インパール作戦の責任者をどのように処分したでしょうか?軍法会議を覚悟した佐藤師団長は心神耗弱状態だと診断され陸軍病院に強制的に入れられました。もし軍法会議に掛かれば東条首相以下牟田口中将の作戦案を許可した軍幹部全体に責任が及ぶからです。牟田口本人も軍司令官を解任され予備役編入されるという軽い処分でした。こういう陸軍上層部の無責任体制の犠牲になって死んでいった将兵の事を思うと、やりきれない気持ちになります。

 インパール作戦の崩壊で、ビルマ方面の防衛は著しく困難になりました。逆に英印軍は攻勢を強めイラワジ会戦で全戦線が崩壊ビルマ失陥に繋がります。