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パウル・フォン・レットウ=フォルベック  アフリカの獅子

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 第1次世界大戦が始まる前、ドイツ帝国は海外に植民地を持っていました。植民地大国である英仏には及ばずともアフリカには現在のナミビアに当たる独領南西アフリカ、現在のカメルーンに当たる独領西アフリカ、独領トーゴランド、現在のタンザニアに当たる独領東アフリカを領有していました。

 

 第1次世界大戦が始まると、大西洋の制海権をイギリスに握られたドイツはこれら海外植民地との連絡を絶たれます。ドイツとしても精鋭は本土に置いて東西の戦線を支えなくてはなりませんから、植民地を守るのは二線級以下の部隊と現地徴集兵でした。英仏は、ドイツ植民地を狙って攻撃を開始、あっというまにドイツ植民地を占領します。ただ一か所を除いて。それが今回紹介する独領東アフリカです。

 

 この地のドイツ軍も弱体でしたが、正規兵2700人、警察兵2200人と2個連隊程度のまとまった兵力があったことがアフリカの他の植民地と違っていました。これを指揮したのがパウル・フォン・レットウ=フォルベック大佐(1870年~1964年、後に少将に昇進)です。イギリス軍は艦隊で海上を封鎖、1914年11月英印軍8000人(1個旅団程度)を上陸させました。

 

 イギリス軍は完全に現地のドイツ軍を舐め切っていました。楽に勝てると思っていたのでしょう。実際現地のドイツ総督も降伏に傾きつつありました。ところがフォルベック大佐は総督の弱腰の方針に真っ向から対立、徹底抗戦を主張します。フォルベックは部隊を巧みに機動させ油断していたイギリス上陸軍を一度は撃退しました。といってフォルベックもこのまま勝てるとは思っておらず、敵部隊を領内深く誘い込んでゲリラ戦で対抗するという持久方針を決めます。

 

 現地軍の意外な抵抗に驚いたイギリスは、本腰を入れて独領東アフリカに侵攻を開始しました。すぐ北のケニアから侵攻するとともに、連合軍に加わったほかの諸国と語らいベルギー領コンゴからはベルギー軍が、ポルトガルモザンビークからはポルトガル軍が攻撃に参加します。総兵力はイギリス軍だけで4万5千人(2個師団強)に及んだそうです。インフラが未整備のアフリカ地域では異例の大軍でした。フォルベックも現地兵を徴集して1万5千人ほどの軍隊になりましたが、3倍以上の敵を受け苦しい戦いを強いられます。とはいえ、現地を知り尽くしたフォルベックは補給が断たれた絶望的状況にありながら、ゲリラ戦、奇襲を繰り返し連合軍をしばしば撃破しました。連合軍の士気も低かったのでしょう。敗走する際大量の武器弾薬を捨てていったため、ドイツ軍はこれを利用して戦いを継続します。

 

 フォルベックは、連合軍の中で一番弱いポルトガル軍を叩き、モザンビークにまで侵入して戦闘を継続しました。ドイツ軍の士気が高かったのは、フォルベックが現地兵も差別せず平等に扱ったからだと言われます。1918年11月11日世界大戦の休戦協定が結ばれてもまだ戦い続けたと言いますから驚かされます。よほど指揮能力が高かったのでしょう。通常は補給が断たれた軍隊は自滅するか降伏を選びます。

 

 結局、同年11月24日フォルベックは正式に連合軍に降伏しました。彼がドイツに帰国するとまるで凱旋将軍のような扱いだったといわれます。1916年11月フォルベックはプール・ル・メリット勲章を授与されます。その後ナチス政権が誕生すると、フォルベックは距離を置き軍籍に戻ることはありませんでした。戦後タンザニアを訪れたフォルベックは、当時一緒に戦った現地兵から熱烈な歓迎を受けます。タンザニアは独立前で(1961年独立)イギリスが植民地支配していましたが、イギリスの植民地政府も軍人の礼をもって迎えました。1964年死去、享年93歳。

 

 ナチスに協力しなかったため晩年は不遇でしたが、壮年期の東アフリカでの活躍は見事としか言いようがありません。小地域戦闘の才能はずば抜けていたんでしょうね。