鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

#歴史

播磨戦国史Ⅴ  播磨の下剋上と浦上氏

赤松氏中興の祖政則が明応五年(1496年)42歳で死去した時、嫡子がなく庶子村秀(龍野赤松氏初代)もわずか4歳でした。そこで重臣の浦上則宗、別所則治、小寺則職らは政則の後妻洞松院との間に生まれた女子「子めし」と赤松庶流七條家の義村を娶わせ、義村を…

播磨戦国史Ⅳ  真弓峠の合戦

応仁の乱は形式的には東軍の勝利に終わりました。東軍の主将細川勝元の子政元は管領となり西軍山名宗全の嫡孫政豊は幕府の重要な役職である侍所頭人から転げ落ち、播磨・備前・美作という重要な三国を失ったのですから。が、一族で八カ国の守護領国を持つ山…

播磨戦国史Ⅲ  応仁の乱と赤松氏

赤松政則が加賀北半国守護として加賀に入部した時、加賀南半国は富樫政親が守護でした。もともと加賀は富樫氏が長年守護を拝命していましたが、弟富樫幸千代と家督を争っており国内がゴタゴタしていた事から半国召し上げられたのです。赤松氏は加賀に入った…

播磨戦国史Ⅱ  赤松氏の滅亡と再興

赤松満祐の将軍義教暗殺は守護大名たちに衝撃を与えました。彼らがすぐ行動を起こさなかったのは時の幕府管領細川持之(勝元の父)が、将軍を守りもせず真っ先に逃げ出すという醜態を晒した事もありましたが、諸将の間にもし赤松の単独犯行ではなく同心する…

播磨戦国史Ⅰ  嘉吉の乱

播磨国は、現在の兵庫県南部です。ただし神戸から東の尼崎、芦屋、西宮、伊丹、宝塚などは摂津国に含まれました。兵庫県北部は但馬国。兵庫県は播磨+但馬+摂津の西部で構成されています。ちなみに神戸市は播磨と摂津にまたがっており、平安時代には福原京…

概説ロシア史Ⅺ  ロシア革命

※ロシア最後の皇帝 ニコライ2世 即位早々デカブリストの乱の洗礼を受けたニコライ1世(在位1825年~1855年)は、民主改革を求める革命勢力から国家を守り専制政治を布く事が自分の使命だと考えました。死刑制度こそ廃止しましたが、これに代わる残酷な「隊列…

概説ロシア史Ⅹ  アレクサンドル1世と19世紀のロシア

エカテリーナ2世の後を継いだパーヴェル1世は、母を憎むあまり女帝の政策と正反対のことを実行します。女帝の寵臣もすべて追放し、恐怖政治を布きました。ただ軽率な人物だったらしく最初は母の好きだったフランス文化を憎みフランス革命政府と対立しますが…

概説ロシア史Ⅸ  女帝エカテリーナ2世

18世紀というのは世界史とくに欧州史にとって大きな転機になった時代だと思います。それまで世界史の主役だったオランダ海上帝国が陰りを見せ、北欧・東欧でもスウェーデン・バルト帝国が崩壊、ポーランド・リトアニア合同も1655年から16667年まで続いたス…

概説ロシア史Ⅷ  ピョートル大帝と大北方戦争

ピョートル1世(在位1682年~1725年)はロマノフ朝初代ミハイル・ロマノフの孫にあたります。父で2代ツァーリ、アレクセイと2番目の妻ナタリア・ナルイシキナとの間に生まれました。アレクセイの6男です。通常ならツァーリを継ぐ事はできなかったのです。 …

概説ロシア史Ⅶ  ディミトリー事件とロマノフ朝の成立

※ロマノフ朝の創始者 ミハイル・フョードルビッチ・ロマノフ リューリク朝最後のツァーリ、フョードル1世は気が弱く病弱な人物でした。妻の兄ボリス・ゴドゥノフは、野心家で義弟から実権を奪い事実上国政を壟断します。そんな中1598年フョードル1世が後継ぎ…

概説ロシア史Ⅵ  イヴァン雷帝とリューリク朝の滅亡

ロシアという国はヨーロッパの東の辺境にあるとともに、北東アジア中央アジアと連なる遊牧国家の西の果てでもありました。当然ヨーロッパ的要素とアジア遊牧民族的要素がミックスされた独特の文化を持っていたと言えます。そこへ1453年に滅亡したビザンツの…

概説ロシア史Ⅴ  イヴァン3世とモンゴル支配からの脱却

※ イヴァン3世 ロシア史や東欧史を見ると、いかにも独力でロシア(ルーシ)がキプチャク汗国(ジュチ・ウルス)から独立できたように思いがちですが実態は複雑な国際的動きが大きな要因でした。最初にイヴァン3世登場までの両者の歴史を振り返ってみましょ…

概説ロシア史Ⅳ  モスクワ大公国の台頭

ロシア史上救国の英雄アレクサンドル・ネフスキーが1263年42歳の働き盛りで死去したことは前記事で書きました。しかし個人的力量だけではモンゴルの圧力に抗する事は物理的に不可能で、彼が屈服した事により全ロシアはキプチャク汗国(ジュチ・ウルス)に服…

概説ロシア史Ⅲ  キエフ・ルーシの危機

※ 救国の英雄 アレクサンドル・ネフスキー リューリク朝キエフ公国第7代ウラジーミル1世(在位955年~1015年)は、キエフ公国に初めてキリスト教を導入し国教にしたことから聖公と称えられます。キエフ公国は成立の過程からもビザンツ帝国と関係が深く、ウラ…

概説ロシア史Ⅱ  キエフ国家の成立

ヨーロッパロシアの東西が遊牧民族の道なら、南北は商人の道でした。それにはまず二つの大河の水系を語らねばなりますまい。北ロシア、ヴァルダイの丘に源流を発し南流して黒海に注ぐドニエプル河。ヴォルガ河とドン河は共にモスクワ近郊の高原地帯に発し、…

概説ロシア史Ⅰ  ロシアの地勢とスラブ民族

歴史地理的にロシアを私なりに規定すれば、ウラル山脈の西から白ロシア(ベラルーシ)まで。北は白海から南は黒海・カスピ海まで。ちょうどそれは東スラブ族(ロシア人・白ロシア人・ウクライナ人)の住地と合致します。スラブ民族というのは、印欧語族スラ…

【古谷経衡】さくらじ#118 宮脇淳子の広い世界、歴史と学会とカルチャーギャップ【saya】

待ってました宮脇先生。今回の韓流の話、韓国人の話とても面白かったです。

ナポレオン戦記Ⅶ  ワーテルロー会戦1815年(最終回)

ナポレオンの敗北、王政復古はナポレオンの元帥たちの人生を変えます。1815年2月ナポレオンがエルバ島を脱出し不死鳥のごとく蘇った事が彼らの運命にも大きな影響を与えました。 まず、ナポレオンの妹婿、ナポリ王ミュラについて語りましょう。ミュラはロシ…

ナポレオン戦記Ⅵ  ライプチヒの戦い1813年

ナポレオンのロシア遠征失敗は各国に大きな影響を与えます。中でもプロイセンにおいて顕著でした。ここでチルジット条約(1807年)以降のプロイセンについて述べます。 チルジット条約はプロイセンにとって国土と国民の半分を奪う過酷なものでした。国軍は…

ナポレオン戦記Ⅴ  ロシア戦役1812年

アウステルリッツからイエナ会戦を中心とする前後数年間がナポレオンの絶頂期だったと言えます。領土自体は1812年ロシア遠征直前が最大でしたが、この頃すでにナポレオン帝国は陰りを見せ始めていました。 最初のつまずきはスペインでした。国王カルロス4世…

ナポレオン戦記Ⅳ  イエナ会戦1806年

アウステルリッツにおけるナポレオンの勝利は欧州諸国を震撼させました。特にプロイセンは大きな衝撃を受けます。 ナポレオンは、欧州の強国プロイセンをオーストリア・ロシア同盟軍に合流させないために外交攻勢をかけていました。イギリス領ハノーバー(…

ナポレオン戦記Ⅲ  アウステルリッツ会戦1805年

大国オーストリアを屈服させたことはフランス国民を沸き立たせます。しかしこの頃産業革命の端緒に着いたばかりのイギリスは欧州一(=世界一)の工業力を誇り強大な力を有していました。イギリス首相小ピット(ウィリアム・ピット1759年~1806年)は、フラ…

ナポレオン戦記Ⅱ  マレンゴ会戦1800年

ナポレオン戦術の真髄を見せたガルダ湖畔の戦いから4年。ナポレオンの立場は大きく変わっていました。 1797年4月、ナポレオン総裁政府の意向を無視してオーストリアと単独講和、カンポ・フォルミオ条約締結。 1797年12月、エジプト遠征。1798年7月、ピラミ…

ナポレオン戦記Ⅰ  ガルダ湖畔の戦い1796年

ナポレオン・ボナパルト(1769年~1821年)はコルシカの貧乏貴族出身、フランス革命時には陸軍大尉でした。しかし若いころから野心にあふれ、特に砲兵戦術には自信を持っていました。 1793年、ツーロン包囲戦において砲兵隊指揮官ド・マルタン少佐が負傷し…

ナポレオン常勝伝説Ⅱ  各国の対抗策

※プロイセン(ドイツ)参謀本部初代参謀総長 ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト 常勝ナポレオンに対して各国はどのような対抗策を講じたのでしょうか? まず、各国はフランス大陸軍最大の利点が国民皆兵による豊富な兵力とその補充力にあると悟ります。1…

ナポレオン常勝伝説Ⅰ  強さの秘密

ナポレオン・ボナパルト(1769年~1826年)、18世紀末彗星のように登場し一時は全ヨーロッパに覇を唱えた稀代の英雄です。おそらくその名を知らない人はいないでしょう。 ハプスブルクの歴史を記すうちに、本格的にナポレオンに触れなくてはならないだろう…

ハプスブルク帝国Ⅹ  ハプスブルク帝国の最期

オーストリア・ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年~1916年)は、最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(オーストリア皇帝としてはフランツ1世)の孫にあたります。叔父フェルディナント1世(フランツ2世の長男)が3月革命で退位したた…

ハプスブルク帝国Ⅸ  ウィーン体制

これはあくまで私見ですが、ロシアの宿将としてナポレオンのロシア遠征を撃退したクツーゾフには「老練」という言葉が似合うように思います。ナポレオン不在のスペイン戦線でフランス軍を苦しめ続けワーテルローで最後の勝利をもたらしたイギリスのウェリン…

ハプスブルク帝国Ⅷ  ナポレオン戦争

マリア・テレジアの娘マリー・アントワネットが歴史的な外交革命で宿敵フランスの王太子ルイに嫁いだ事は前記事で述べました。ルイは、祖父ルイ15世の死去を受け1774年即位します。 マリー・アントワネットの浪費癖が原因でフランス革命が起こったとされま…

ハプスブルク帝国Ⅶ  マリア・テレジア

1740年、マリア・テレジア(在位1740年~1780年)がオーストリア皇位(正式にはオーストリア帝国の名はウィーン会議後だが慣例的にこう呼びます)を継いだ時、案の定彼女の継承に異議を唱えた者がいました。 バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトです。実…