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概説ロシア史Ⅱ  キエフ国家の成立

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 ヨーロッパロシアの東西が遊牧民族の道なら、南北は商人の道でした。それにはまず二つの大河の水系を語らねばなりますまい。北ロシア、ヴァルダイの丘に源流を発し南流して黒海に注ぐドニエプル河。ヴォルガ河とドン河は共にモスクワ近郊の高原地帯に発し、ドン河はアゾブ海に、ヴォルガ河はカスピ海にそれぞれ注ぎます。ドンとヴォルガはほぼ並行して流れるのでヴォルガ水系と一つに纏めて良いでしょう。
 
 バルト海では、12世紀に成立したハンザ同盟に先行して現在のオランダ沿岸地帯に住むフリーセン人を中心に早くも6世紀ごろから広く交易が行われていたそうです。彼らが扱ったのは木材・ワイン・穀物・織物など。交易商人たちは販路と原料供給地を求めてバルト海を東へ東へと進みます。
 
 バルト海の東の果てにはスラブ人がいました。交易商人と接触するうちに自分たちの交易商品として木材や毛皮がある事に気付きます。交易商人たちは自分たちの住む西欧の他に巨大な貿易相手が南方にある事を知っていました。すなわちビザンツ帝国です。
 
 彼らは、ドニエプルやヴォルガの水系を利用し黒海を目指し南方に赴きます。ロシアの南北地方をつなげたのは最初は交易商人だったと思います。ビザンツへ向かう黒海沿岸にはアジア系のハザール汗国が成立していました。最初は西欧系の商人だけだったでしょうが、スラブ人たちの中からも交易商人が誕生します。彼らの移動でドニエプル河沿いやヴォルガ水系に最初の都市が誕生したと想像できるのです。
 
 ところが、利のあるところには必ずそれを奪おうとする者たちが出現するのは世の習い。現在のスカンジナビア半島に住んでいたノルマン人の一派、ヴァリャーグ人たちは自分たちの仲間がヴァイキングとして西欧世界を荒らしまわっている事に刺激を受け、東方ロシアの地に目を付けました。
 
 といっても最初は商人として、次には都市に雇われる傭兵としてロシアの地に上陸したのでしょう。そして各地の都市の情報が本国に入るにつれ「この都市が奪いやすそうだ」と作戦を練ったに違いありません。
 
 バルト海を渡りロシアに降り立った最初のヴャリャーグ人権力者をリューリクといいました。リューリクは現在のペテルブルグから南に200キロほど下った内陸部のノブゴロドを占領し、ノブゴロド公を名乗ります。862年の事です。いわゆるノブゴロド国家の成立でした。
 
 実はリューリクの実在を疑う史家もいます。ただヴァリャーグ人たちによってノブゴロド国家が成立したのは事実で彼らは自分たちの祖をリューリク1世として称えました。ちなみにロシアの語源であるルーシはリューリクの出身部族ルス族に由来するそうです。ノブゴロドはドニエプル水系とヴォルガ水系の交点という好立地でハンザ同盟が成立すると東方の拠点の交易都市として大発展を遂げます。
 
 ヴァリャーグ人たちは、ノブゴロドを基地としてドニエプル水系を南に下り882年にはキエフを陥れます。キエフは対ビザンツ、ハザール交易の要衝でした。キエフは拡大したヴァリャーグ人国家の首都となり、さらに彼らは東方のヴォルガ水系にも手をつけました。
 
 伝説では、キエフを占領したのはリューリクの子イーゴリだと伝えられます。以後イーゴリの子孫がキエフ公として広大なルーシー国家の盟主となり支配しました。といっても成立の過程から、強力な中央集権国家ではなくキエフは各地の都市国家の盟主という立場にすぎず、緩やかな統合だったといえます。これがキエフ大公国の始まりでした。
 
 次回はキエフ国家を襲った危機を描きます。