
※ 救国の英雄 アレクサンドル・ネフスキー
リューリク朝キエフ公国第7代ウラジーミル1世(在位955年~1015年)は、キエフ公国に初めてキリスト教を導入し国教にしたことから聖公と称えられます。キエフ公国は成立の過程からもビザンツ帝国と関係が深く、ウラジーミルが導入したのもビザンツのギリシャ正教でした。ただ文弱だけの公ではなく、彼の時代にドナウ河畔からブルガール人(のちにブルガリアを建国。この時はロシアの東にいた)の住むカマ河畔まで領土を拡大します。
キエフは全ルーシの盟主でしたが、リューリク朝発祥の地でハンザ同盟の重要都市でもあったノブゴロドもまた大きな力を有していました。当時ルーシ諸国ではリューリクの血統が正統とされ、当然ノブゴロド公もリューリクの血を引いています。両国は全ルーシの盟主の座を巡ってしばしば激しく戦いました。またこれらは同じ親戚のようなものですから、公を他国から迎える事もあったのです。例えばヤロスラフ1世(賢公、1016年~1054年)はノヴゴロド公からキエフ公の兄スヴャトポルクを戦争で倒しキエフ公の地位を手に入れています。二人はウラジーミル聖公の息子たちですから、早くも子の時代で分裂が始まったと言えます。
12世紀ころにはルーシの分裂は明らかとなり、北東部を纏めたウラジーミル大公国、北西部を纏め貴族共和制を実現させたノブゴロド公国など有力な諸侯国が割拠する戦国時代を迎えました。一応キエフ大公国の盟主権はありましたが権威だけの存在となり他のルーシ諸国を押さえつけるだけの実力はなかったのです。ちょうど日本の戦国時代と似ていますね。
国が分裂すると、周辺の外国からは恰好の目標となるのも世界史の常です。危機は13世紀にやってきました。ここに一人の人物がいます。ウラジーミル大公ヤロスラフ2世の息子でアレクサンドル。1236年彼は父からノブゴロド公を継ぐよう命じられます。アレクサンドルのノブゴロド公即位はノブゴロド貴族の要請によるものかウラジーミル大公国がノブゴロドより軍事的に優位に立っていた結果かは分かりません。
この1236年という年はルーシにとって不幸の始まりでした。というのもバトゥ率いるモンゴル軍がルーシに侵入した年だからです。1223年のチンギス汗征西の時はルーシは辺境を荒らされたばかりでしたが今回は違いました。ルーシを始めとしてヨーロッパ全土の征服を目指したモンゴル軍はヴォルガ流域にいたブルガール人を降し、1237年から38年にかけてウラジーミルをはじめとする北東ルーシを征服、その後南方に転進し全ルーシの首都ともいうべきキエフを攻撃、徹底的に破壊します。その後ウクライナ平原を西に進みポーランド、ハンガリーに侵攻しました。1241年オゴタイ汗の死でモンゴル軍の西進は止まりましたがバトゥは本国に帰らずヴォルガ河畔に駐屯します。この地にキプチャク汗国(ジュチ・ウルス)を建国したバトゥは中央アジアからウクライナにまたがる広大な遊牧国家を築きました。ルーシの人々もモンゴル帝国の過酷な支配下に組み入れられます。
ところでモンゴル軍の被害をほとんど受けなかったのがノブゴロド公国です。森林と沼沢が続く極寒の地であった事がモンゴル軍に嫌われたのだとも言われています。しかし、侵略者は北と西からやってきました。まず1240年ビルゲル率いるスウェーデン軍がノブゴロドに侵入します。アレクサンドルはこれをネヴァ河畔で迎え撃ち少数の兵力でスウェーデン軍に大勝利、侵略の意図を挫きました。名声はルーシ全土に鳴り響き「ネヴァ河の勝利者」を意味するアレクサンドル・ネフスキーと呼ばれ称賛されます。
次にノブゴロド公国を襲った危機は、バルト海沿岸から延びて来たドイツ騎士団でした。1242年4月、チュード湖氷上の戦いでこれを撃破したアレクサンドル・ネフスキーはその名声を不動のものとします。1245年にはポーランド・ハンガリー連合軍も破っています。
1246年、モンゴルに服属していたウラジーミル大公ヤロスラフ2世はモンゴルの第3代大汗グユクの即位式に参加するためにモンゴルに赴き、無理がたたったのか現地で死去しました。父の死でウラジーミル大公国を引き継いだアレクサンドルでしたが、さすがに巨大なモンゴルに敵対する事の愚を悟ります。自らジュチ・ウルスの首都サライに赴いたアレクサンドルはその場で臣従を誓いました。
アレクサンドルのモンゴル臣従は、ルーシ国家を存続させるための苦渋の選択だったと思います。しかしそのためにルーシはタタールの軛(くびき)という苦難の時代を迎える事となりました。このあたりは評価の分かれるところですが、当時の国際情勢を考えれば彼の選択は仕方なかったように思います。1263年アレクサンドル・ネフスキー死去。享年42歳。