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概説ロシア史Ⅳ  モスクワ大公国の台頭

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 ロシア史上救国の英雄アレクサンドル・ネフスキーが1263年42歳の働き盛りで死去したことは前記事で書きました。しかし個人的力量だけではモンゴルの圧力に抗する事は物理的に不可能で、彼が屈服した事により全ロシアはキプチャク汗国(ジュチ・ウルス)に服属する事となります。
 
 ルーシ諸国はモンゴルの重税に喘ぎ、人民は疲弊しました。タタールの軛(くびき)と呼びます。これはイヴァン3世(大帝 在位1462年~1505年)が1480年ジュチ・ウルスへの貢納を止めるまで実に200年以上も続きました。
 
 ジュチ・ウルスは最初軍隊と徴税官を派遣し支配していましたが、次第に徴税の役目をルーシの諸侯国に代行させるようになります。モンゴル人たちは、そのためにルーシ支配の拠点をキエフから自分たちに近い北東ルーシのウラジーミル大公国へ移します。ウラジーミルがルーシの指導的立場にあったアレクサンドル・ネフスキーの国であったと云う事も理由の一つでした。
 
 ところで、アレクサンドル・ネフスキーの末子ダニール・アレクサンドロビッチは父の死後分領されモスクワの地に封じられます。最初は辺境でしたが、ヴォルガ河水運の要衝だった事から次第に発展し1318年にはダニールの子ユーリー3世が、ノブゴロドとモンゴルの支援を受けウラジーミル大公位を獲得しました。以後モスクワはウラジーミルに代わり、モンゴルに対する徴税請負を担当しルーシ諸国の指導的立場になります。
 
 
 一方、ルーシの西でも大きな変動が起ころうとしていました。バルト海沿岸はデンマークスウェーデンの進出が著しくルーシを圧迫しつつありましたが、そこにドイツ騎士団が加わった事で収拾のつかない事態に陥ります。この混乱は、バルト諸国のうちまだドイツ騎士団の侵略を受けていなかったリトアニアを大いに刺激し、同じくドイツ騎士団の存在を苦々しく思っていたポーランド王国との合同の動きを加速させました。1385年リトアニア大公ヤギェウォはカトリックに改宗しポーランド女王ヤドヴィガと結婚、同君連合の君主ヴワディスワフ2世として即位します。歴史上これをポーランドリトアニア合同と呼びます。ヴワディスワフ2世の創始したヤギェウォ朝は一気に東ヨーロッパの大国として君臨する事となりました。
 
 ポーランドリトアニア連合はドイツ騎士団との戦いに勝利しルーシへの侵略を加速させます。この方面は主にリトアニア大公国が担当しました。ルーシ諸国も異教徒の蛮族モンゴル人に支配されるよりはと、ギリシャ正教とは違っても同じキリスト教徒という安心感もあって雪崩をうってリトアニアに靡きます。全ルーシの3分の2、今で言うウクライナベラルーシ白ロシア)の大半がポーランドリトアニア連合に属しました。
 
 この動きを、かつての勢いの無くなったキプチャク汗国が阻止する事は不可能でした。内部分裂で衰え、中央アジアでもティムール帝国が台頭していたからです。ポーランドリトアニア連合がいかに強大だったかは、後に黒海北岸に進出してきたオスマン帝国を戦争で押し戻した事でも分かります。しかし、連合はこれによって疲弊しルーシに対する支配力を衰えさせました。
 
 モンゴル支配下に残されたのは北東ルーシのみ。モスクワ大公国は、モンゴル支配の代理人として他のルーシ諸国を圧し、モンゴルの力を背景に台頭します。歴代モスクワ大公はモンゴル(キプチャク汗国)の汗から大公に任命され、ユーリー3世の子イヴァン1世(在位1325年~1340年)以降はウラジーミル大公を兼任するほどの強勢を誇ります。
 
 このモスクワ大公国が後のロシア帝国へと発展するのです。次回はモスクワ大公国に現れた英主イヴァン3世の活躍とモンゴル支配からの脱却、モスクワ王国の誕生を描きます。