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概説ロシア史Ⅴ  イヴァン3世とモンゴル支配からの脱却

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                             ※ イヴァン3世
 
 ロシア史や東欧史を見ると、いかにも独力でロシア(ルーシ)がキプチャク汗国(ジュチ・ウルス)から独立できたように思いがちですが実態は複雑な国際的動きが大きな要因でした。最初にイヴァン3世登場までの両者の歴史を振り返ってみましょう。
 
 モンゴルに限らず遊牧国家は、多くの部族の集まりで例え汗でも配下の領内に介入することはできませんでした。汗が支配できるのは直轄領のみ。臣下は自領の自治を認められる代わりに汗に人口に応じた兵力を提供します。一種の封建的な社会でした。キプチャク汗国も例外ではなく、建国当時からジュチの次男で家長になったバトゥがルーシ諸国を含む帝国の西半分を領し、東半分はその兄オルダが支配しました。兄弟たちと臣下たちは両者で折半されそれぞれに属します。一応宗主権はバトゥの子孫が持つものの建国当初から爆弾を抱えていたと言えます。バトゥのウルス(国家という意味)を特に青のオルド(青帳ハン国)と呼びました。一方オルダのウルスは白のオルド(白帳ハン国)と呼ばれます。
 
 一説では全生産量の十分の一という過酷な人頭税を課せられていたルーシ諸国も、いつまでも属国のままでいるつもりはありませんでした。例えば第6代モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイ(イヴァン1世の孫、在位1369年~1389年)は、キプチャク汗国が後継者争いで内戦に入った混乱期を衝いて、1373年キプチャク汗国への貢納を中止します。有力貴族出身でキプチャク汗国の事実上の支配者だったママイは、大軍を率いてドミトリーを攻めました。
 
 1380年ドミトリーはルーシ諸国を糾合した連合軍を率いて迎え撃ち、クリコヴォの戦いでこれを撃破します。ところがママイの政敵でキプチャク汗国の大汗位を狙っていたトクタミシュ(ジュチの13男トカ・テムルの子孫)は中央アジアに大帝国を築いていたティムールの援助を受けてカルカ河畔の戦いでママイを破り、ためにママイは本拠のクリミア半島に逃げ帰りました。後にママイはクリミア半島にあったジェノヴァ人の町カッファに逃げ込み、そこで財産を狙ったジェノヴァ人に殺されたとも、トクタミシュの追手に補殺されたとも云われています。
 
 キプチャクの支配者となったトクタミシュは反抗したドミトリーを攻め、力尽きたドミトリーは再びキプチャク汗国に屈服します。しかしまもなくトクタミシュは援助を受けていたティムールと敵対、ティムールによる懲罰遠征をうけ首都サライは陥落。没落したトクタミシュはシベリア方面に逃亡するも配下に暗殺されました。
 
 すでに後継者を巡る内戦で痛手を受けていたキプチャク汗国は、ティムール軍の遠征を受けて徹底的に破壊され国力を大きく後退させます。以後汗国は分裂し、ジュチの後裔だった各地の王族が自立しヴォルガ中流にカザン汗国、カスピ海北岸にアストラハン汗国、クリミア半島ウクライナ南部にクリミア汗国など多くの国が勃興しました。
 
 第9代モスクワ大公イヴァン3世(在位1462年~1505年)が即位したときはこのような状況だったのです。実質的にキプチャクのモンゴル人支配は形骸化し、イヴァン3世は近隣諸国を次々と併呑します。1478年には、モンゴル支配に入らずハンザ同盟で独自の経済発展を遂げていたノヴゴロド公国を併合しました。1472年には、ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の姪ソフィアと再婚するなど着々と地歩を固め、ついにキプチャクのアフマド汗に対し貢納停止を宣言します。
 
 ただし独力での反抗には不安だったのか、分裂したモンゴル勢力の一つクリミア汗国と同盟しました。これに対しアフマド汗も、モスクワを挟撃すべくポーランドリトアニア連合のカジミェシュ4世(在位1440年~1492年)と同盟を結ぶなどもはや宗教も民族もへったくれもないような混乱した事態に陥ります。
 
 1480年、アフマドはモスクワの臣従と貢納の再開を要求し大軍を率いてモスクワに遠征を開始。イヴァン3世は、全軍を率いてウグラ川に陣を布き、対岸のキプチャク軍と対峙しました。この時、アフマドはモスクワを挟撃すべくポーランド王カジミェシュ4世に援軍を要請し、背後から攻めてくれるように頼みます。ところがポーランド軍はいつまでたっても動き出さず、単独でのモスクワ攻撃を躊躇したアフマドは、数週間対峙した後戦う事をせず撤退しました。
 
 史上これをウグラ河畔の対峙と呼びますが、これによって事実上タタールの軛(くびき)は終止符を打ちます。以後発展する一方のモスクワとキプチャク諸国は力関係が逆転、各個撃破される運命でした。ところでイヴァンは、ビザンツ皇女ソフィアと結婚した1470年代頃から「ツァーリ」を名乗ります。これはラテン語カエサルの事で、ドイツのカイザーと同様皇帝を意味しました。ただし当時のロシア語のニュアンスでは「大公より格上だが皇帝よりは劣る」と云うくらいのもので、実質的にはモスクワ王国いやロシア王国の誕生といっても良いでしょう。
 
 以後、この国の事をロシアと呼びます。ギリシャ正教の総本山コンスタンティノープルオスマン帝国に滅ぼされた後、ロシアはビザンツの後継者を自任し「第3のローマ」たる事を誇りました。ただし国際的にそれが認められるにはまだまだ時間がかかります。
 
 イヴァン3世は、モンゴルに対し反撃に転じます。キプチャク諸国の一つカザン汗国の保護国化を目指し1487年には首都カザンを囲みました。これによりカザンはロシアの忠実な同盟者となります。東方を固めたイヴァンは、大敵ポーランドリトアニア連合に挑みました。1492年カジミェシュ4世が亡くなり両国を二人の息子が継承し一時的に同君連合が途切れた隙を衝いての攻撃です。
 
リトアニア大公国領の一部を占領し、これを交渉材料として1494年には「全ルーシの君主」の称号を認めさせました。翌1495年には娘エレナをリトアニア大公アレクサンデルに嫁がせます。1501年娘婿アレクサンデルが兄の死によってポーランド王を継承、再び同君連合を復活させると、その混乱に乗じてスモレンスクなどルーシ西部の広大な領土を割譲させました。
 
 イヴァン3世は、モンゴル支配を脱し、東西に大きく領土を拡大した事で『大帝』と称えられます。彼の孫が有名なイヴァン4世(雷帝)です。次回はイヴァン4世の治世とその混乱を描きます。