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チャガタイ汗国の興亡

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 世界史でチンギス汗の建てたモンゴル帝国元朝、キプチャク汗国、チャガタイ汗国、オゴタイ汗国、イル汗国の五つに分裂したと習ったと思います。そのうちフビライ汗の元朝が明の太祖朱元璋に滅ぼされたことは多くの人が知っていても、その他の4国がどうなったかは意外と知られていません。

 簡単に紹介すると、まずオゴタイ汗国は1251年モンゴル帝国第4代モンケ汗(チンギス汗の4男ツルイの長男)の即位に反対し滅ぼされてしまいます。キプチャク汗国はチンギス汗の長男ジュチの一族が建国した国で一時はモスクワ大公国らスラブ諸侯を支配下に置くほど強大でしたが、内部対立から4つに分裂しモスクワ大公国の後身ロシア帝国に滅ぼされました。

 イル汗国はツルイの三男フラグが建てた国で、現在のイランを中心に西アジアを支配します。ちなみに長男が第4代モンケ汗、次男は元朝を建てたフビライ汗です。イスラム教に改宗し同じく内紛の末中央アジアに興ったティムールに1381年滅ぼされました。

 今回紹介するチャガタイ汗国は別名チャガタイウルス(ウルスとはモンゴル語で国、あるいは人の集団を意味する)とも言います。チンギス汗の次男チャガタイを始祖とし東は天山山脈北麓のイリ地方から西はアラル海にそそぐアムダリアとシルダリアに挟まれた穀倉地帯、支那史書では河間地方、欧州ではトランスオクシアナ(オクサス河【アムダリア】の向こうの地の意味)までも支配下に置きます。アラル海、バルハシ湖を北限とし、南はアフガニスタンのカブール地方までを領域としました。

 首都はアルマリク。場所は特定されておらず、おそらくイリ渓谷の中心都市でシルクロード天山北路に面したクルジャ(支那語では伊寧)近郊にあったとされます。行国(遊牧国家)の首都王庭形式であったと想像され要害の地に設けられた大汗のテントを中心に大小さまざまなテント群が存在したのでしょう。
 
 チャガタイ汗国もモンゴル帝国第4代モンケ汗の即位に反対したことから、モンゴル軍主力に攻められ一族の多くが処刑されました。弱体化したチャガタイ汗国を再建したのは第7代バラク(在位1266年~1271年)です。バラクチャガタイの長男モエトゥケンの血を引く嫡流でしたが、遊牧民には長子相続の習慣がなく無意味でした。
 実はバラクは、チャガタイ汗国を離れ元朝フビライ汗に近侍していたそうですが、自分の息のかかった者をチャガタイ汗国に送り込み支配しようと考えたフビライの意向で中央アジアに向かいます。

 そこには同じ一族のムバーラク・シャーがいてチャガタイ汗国の汗位をめぐって激しく戦いました。この戦いに勝利したバラクは晴れてチャガタイ汗国の汗に即位しますが、フビライの傀儡になることを嫌い反抗、自立の道を探ります。同じくフビライに反抗したオゴタイ家のハイドゥとも対立しました。

 結局1269年、ハイドゥと和議を結び、キプチャク汗国のモンケ・テムルを交え三者でタラス河畔にて会盟、互いの勢力範囲を確定します。バラクはさらに勢力拡大を狙い、フビライに近いイル汗国(フビライの弟フラグが建国)に遠征、イラン北東部のホラサン地方を侵略しました。が、迎え撃ったアバカ(フラグの子、第2代君主)にカラ・スゥ平原の戦いで大敗。キプチャク汗国のモンケ・テムルはアバカに寝返り、多くの諸侯もバラクから離反します。

 離反した王族や諸侯の多くはハイドゥに付き、ハイドゥは和解と称しバラクのテントを大軍で囲みました。まもなくバラク急死、ハイドゥによる毒殺だと言われます。バラクの死でチャガタイ汗国は再び分裂、バラクの遺児ドゥアはハイドゥの後押しでようやく汗位を得ました。チャガタイ汗国はハイドゥの傀儡となり、この関係はハイドゥが死去する1301年まで続きます。

 チャガタイ汗国は、遊牧国家らしく長子相続が確立していなかったので一族間の実力者が次々と汗位に就き10年以上汗位を保つものは稀でした。前記事ラビ川の戦いで出てきた第15代チャガタイ汗ケベクは、このドゥアの子にあたりますが、汗位を継いだのは1320年頃(~1326年)だと言われますので、インドのパンジャブ地方に遠征したのはその前という事になります。ラビ川の戦いの起こった1306年当時のチャガタイ汗はケベクの父ドゥアだったので、合理的解釈をするとドゥアの命でチャガタイ軍を率いたのがケベクだったという事でしょう。

 ラビ川の戦いで敗れインド侵略は失敗したものの、ケベクはチャガタイ汗国中興の祖ともいうべき活躍をします。敵対していた元朝、イル汗国と和睦し、ケベク本人はイスラム教徒ではなかったものの領民を公平に扱い、この地を訪れた旅行家イブン・バツータからも称賛されたほどでした。ケベクの治世下で、都市生活をし農耕交易に理解を示す西部の定住派と遊牧民としての伝統を重んじる遊牧派の対立が生まれたと言われます。

 ケベクの死後、対立は激化し1340年チャガタイ汗国は東西に分裂しました。東は遊牧勢力が主流となりモグリスタン汗国とも呼ばれます。定住社会に馴染む西チャガタイ汗国の人間をカラウナス(混血児)と呼んで憎んだそうです。分裂したことで西チャガタイ汗国は求心力を失い一族が各地に割拠する戦国時代に突入しました。そこに一代の英傑ティムール(1336年~1405年)が登場、チャガタイ汗の血を引く王族を傀儡とし西チャガタイ汗国そのものを乗っ取ります。

 東チャガタイ汗国=モグリスタン汗国もティムールの侵略を受けますが何とか滅亡を逃れ、こちらは17世紀まで命脈を保ちました。1680年領土であるタリム盆地西部をジュンガル部のガルダン汗に占領され傀儡として操られます。最後の汗は名前すら分かっていませんが、ナクシュバンディー教団のアーファーキーヤ(白山党)に殺されモグリスタン汗国は滅亡しました。

 一時はインドに遠征するほど強勢を誇ったチャガタイ汗国ですが、亡ぶときはあっけないものです。しかも東西とも情けないような滅び方でした。遊牧国家の滅亡の常とはいえ感慨深いものがありますね。