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概説ロシア史Ⅵ  イヴァン雷帝とリューリク朝の滅亡

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 ロシアという国はヨーロッパの東の辺境にあるとともに、北東アジア中央アジアと連なる遊牧国家の西の果てでもありました。当然ヨーロッパ的要素とアジア遊牧民族的要素がミックスされた独特の文化を持っていたと言えます。そこへ1453年に滅亡したビザンツギリシャ正教文化まで流入したのです。
 ロシアを訪れた他のヨーロッパ人が「ロシアはヨーロッパというよりアジアだ」と感じる理由はこのあたりにあるのかもしれません。
 
 イヴァン3世の孫に当たるイヴァン4世(在位1533年~1584年、ただし途中1年ブランクがある)が1533年モスクワ大公となった時、ロシア貴族の半数はモンゴル系だったとも云われています。イヴァン4世自体、母方の祖先はキプチャク汗国に勢力を振るったママイで、父方からリューリクの血、母方からモンゴルの血を受け継いでいました。
 
 イヴァン3世時代、長きに渡りロシア人を苦しめたキプチャク汗国による「タタールの軛(くびき)」に終止符を打った事は前回述べましたが、実は実態は少々複雑でした。1502年、分裂の果てに衰退したキプチャク汗国(大オルダ)はジュチの13男トカ・テムルから出たハージー・ギレイの建国したクリミア汗国によって首都サライを陥れられ滅亡します。その残党は中央アジアに逃れてしばらく命脈を保ちますが、キプチャク汗国を滅ぼしたハージー・ギレイの息子メングリ1世ギレイは、キプチャクの旧領を併合しにわかに強大化します。
 
 しかもクリミア汗国は、1478年ビザンツを滅ぼし日の出の勢いだったオスマントルコにいち早く服属し宗主権を認めていましたから、当時のロシアには手が出ない強国でした。結局ロシアは、クリミア汗国に攻められないため貢納を復活しなければならなかったのです。実際、1571年にはポーランドと同盟しモスクワを襲撃、焼き払っているほどです。結局モンゴルの影響力は1783年、エカテリーナ2世がクリミア汗国を併合するまで続きます。
 
 イヴァン4世は、キプチャクの後継国家と血みどろの抗争を続けました。1552年カザン汗国、1556年にはアストラハン汗国を滅ぼします。イヴァン4世は、同じ頃コサックの首領イェルマークを使って東方植民を開始しました。
 コサックというのはキプチャク汗国の滅亡で流浪した遊牧民と過酷な農奴制から脱出した逃亡農民の連合体でしたから、何のことはない同じ遊牧民が東から西へ辿った道を逆に戻ったにすぎません。
 
 イヴァン4世は、戦争の合間ロシア最初の議会を作るなど中央集権化を推し進めます。1558年にはバルト海進出を目指しリヴォニア戦争を開始しました。しかしこれはポーランドリトアニア連合とスウェーデンの連合軍に袋叩きにあい失敗します。まだまだ当時のロシアは欧州列強を相手にするには力不足だったのでしょう。
 
 1575年、イヴァン4世はシメオン・べクブラトビッチというチンギス汗の血を引く者を探し出し突如譲位してツァーリの位を授けます。全ルーシの皇帝に推戴し自らも忠誠を誓いました。そうしておいて一年後の1576年シメオンから譲り受ける形で復位します。これはどういう事かというと、『チンギス汗の子孫でなければ汗になることができない』という所謂チンギス統原理に基づく正当な手続きで全ルーシの支配者になったというデモンストレーションでした。
 
 このあたり、やはりロシアはヨーロッパの国ではなくモンゴルの後継国家の一つだと言えるかもしれません。半数以上を占めるモンゴル系の貴族たちを納得させるにはこれしかなかったのでしょう。イヴァン4世が復位した1576年をロシア帝国の開始だとする史家も多いそうです。
 
 
 リューリクから続くリューリク朝の最盛期を築いたイヴァン4世。一方、モンゴル遊牧民の血がそうさせるのか残虐非道な人物だったとも伝えられます。流血・粛清を繰り返す恐怖政治は人心の離反を招きました。ロシア史上最悪の暴君という意味も込めて「雷帝」と呼ばれる所以です。1584年イヴァン4世死去。享年53歳。
 
 
 後を継いだ息子のフョードル1世も1598年亡くなります。フョードルには子がなかったため9世紀から続いたリューリク朝はついに断絶しました。この後ロシアは未曽有の混乱期を迎えます。次回、ディミトリー事件とロマノフ朝成立を描くこととしましょう。