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播磨戦国史Ⅲ  応仁の乱と赤松氏

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 赤松政則が加賀北半国守護として加賀に入部した時、加賀南半国は富樫政親が守護でした。もともと加賀は富樫氏が長年守護を拝命していましたが、弟富樫幸千代家督を争っており国内がゴタゴタしていた事から半国召し上げられたのです。赤松氏は加賀に入ったもののまったく地縁がなく、富樫氏所縁の国人たちの激しい抵抗を受けます。ただ富樫政親細川勝元陣営でしたので両者が表立って争う事はありませんでした。ところで富樫政親という人物、日本史に詳しい方ならご記憶でしょうが加賀一向一揆に攻め滅ぼされた人物です。政親は家督争いや赤松追い落としのために一向一揆の力を借り、その後仲たがいして攻められ自刃しました。政親が後に応仁の乱に出陣する際莫大な軍費を領民に課したため人心を失ったのが原因だとされます。加賀はその後90年あまり『百姓の持ちたる国』と呼ばれれる本願寺王国になりました。
 
 そんな中、京都では応仁の乱が勃発します。応仁の乱は八代将軍足利義政が無能で優柔不断な人物だったことが原因で起こりました。好きな芸術の世界に生きるために隠居して弟の浄土寺門跡義尋に将軍職を譲ろうと考えた義政は、正室日野富子にまったく相談することなく勝手に決め弟を呼び出します。義尋は還俗して義視と名乗り管領細川勝元が後見人となりました。
 
 ところが日野富子は、間もなく懐妊します。富子との間に子が生まれなかった事から弟に譲ったのに、将軍職を譲ると決まったら実子が生まれたのですから運命の皮肉です。さすがに義政は、実子を仏門に入れると言いだしますが、気の強い妻富子は絶対に認めようとしませんでした。そして我が子を将軍にするため勝元に対抗しうる幕府内の実力者山名宗全を頼ったのです。
 
 実は、それまでにも斯波氏、畠山氏ら有力守護家の間で家督争いが起こっていました。彼らは細川派と山名派に分かれて激しく対立します。自分の属する派閥が勝って将軍職を得れば、自分も大名家の家督を獲得できるのですから必死です。こうして将軍家の後継者争いから各守護家の家督争いも複雑にからんで京都で戦乱が勃発します。将軍義政にこれを収集する能力は無くただおろおろするばかりでした。この時点で足利将軍家の命運は尽きたとも言えます。
 
 戦乱は応仁元年(1467年)から始まるので応仁の乱と云われますが、そのまえから小競り合いは続いていました。山名方は京都の西陣に本陣を置いたので西軍、細川方は相国寺、 北小路町付近に布陣したので東軍と呼ばれます。
 
 西軍11万、東軍16万が京都に集まったとも云われました。もちろん赤松政則も東軍に参加するために上洛します。この時赤松勢は加賀の国人よりも山名宗全が領国としていた旧領播磨から参加した赤松旧臣たちが多数いたそうです。
 
 戦いは膠着状態に陥り容易に決着しませんでした。東軍総帥細川勝元は、秘かに赤松政則を呼び寄せ旧領播磨に入って山名方の後方を攪乱するよう命じます。これは政則にとっても渡りに船で喜び勇んで播磨に下りました。播磨でも山名氏の武断支配に反抗して赤松旧臣たちが蜂起します。
 
 本国播磨奪回は数日でなされたそうです。よほど山名宗全の支配が過酷だったかの証拠かもしれません。宗全は播磨を植民地としてしか見てなかったのでしょう。赤松勢は余勢を駆り旧守護国備前・美作まで回復しました。応仁2年(1468年)の出来事です。そのころ加賀北半国は富樫政親に奪回されました。
 
 赤松政則が播磨守護に返り咲いた時期は不明ですが、おそらくこの頃だと思います。任命したのは実質的な幕府の主宰者、管領細川勝元。赤松氏の播磨奪回に活躍したのは重臣浦上則宗、そして一族の赤松政秀らでした。ところでこの政秀、一門の龍野赤松氏に同名の人物がいますが、時代が違うため別人だと思われます。
 
 政則はそのまま播磨に留まります。応仁元年8月西軍の大内政弘が大軍を率いて上洛すると、摂津の国人衆と共にこれを防ごうとしますが、肝心の摂津国人衆が大内軍に降伏したため猪那野(現伊丹市付近)で合戦を挑み大敗、魚住氏など多くの戦死者を出して播磨に撤退しました。
 
 大内勢が上洛し西軍が有利になると、勝元は政則に上洛を促しました。この時浦上則宗が強硬に上洛を主張、赤松政則は三千騎を率いて上洛し京都東山南禅寺の上岩倉山に陣取って奮戦したそうです。ところで三千騎といえば一騎に五人の従者が付いたとして兵力1万5千です。これには当然誇張があるでしょうが赤松氏が短期間で急速に勢力を回復しているのが分かります。
 
 文明元年(1469年)山名是豊が大内勢に占拠されていた兵庫を攻撃しました。是豊は宗全の次男でしたが、家督を得られなかった事から父と対立し細川方に奔った武将でした。赤松勢もこれに協力します。赤松勢には宇野越前守則高、赤松政秀、小寺藤兵衛則職、明石道祖鶴丸らがいました。
 
 是豊・赤松軍は一旦兵庫を占領しますが長続きせず、まもなく大内勢に奪回されます。そのほか天王山の戦い、勝龍寺城の戦いにも参加し赤松勢は東軍の主力として活躍しました。政則は文明三年(1471年)侍所頭人に任ぜられるなど四職家としての家格も取り戻します。
 
 応仁の乱は決着がつかないまま、文明5年(1473年)細川勝元山名宗全という両軍の主将が相次いで亡くなったために終結しました。彼らの後継者細川政元山名政豊はこれ以上無意味な戦いをしても建設的でないと講和します。これに最後まで反対したのは赤松政則だったそうです。実力で勝ち取った播磨、備前、美作を山名氏に再び奪われるのを恐れたためだとも云われますが、山名政豊にそこまでの覇気は無く、このまま三国の守護は政則に認められました。
 
 赤松政則は、守護所として文明元年(1469年)、兵庫県姫路市夢前町宮置、糸田にある標高370mの置塩山に城を築きます。以後置塩城は赤松氏の本城となり、赤松氏も置塩屋形と尊称されるようになりました。
 
 次回は、播磨・美作・備前を回復した赤松氏中興の祖政則の播磨統治、宗全の後継者山名政豊の旧領奪還をかけた播磨侵入と真弓峠の合戦を描きます。