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播磨戦国史Ⅴ  播磨の下剋上と浦上氏

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 赤松氏中興の祖政則が明応五年(1496年)42歳で死去した時、嫡子がなく庶子村秀(龍野赤松氏初代)もわずか4歳でした。そこで重臣の浦上則宗、別所則治、小寺則職らは政則の後妻洞松院との間に生まれた女子「子めし」と赤松庶流七條家の義村を娶わせ、義村を赤松家督に据えました。
 
 後継者を家臣たちが勝手に決めるのですから、赤松宗家はすでに実権のないお飾りに過ぎなくなっていた証拠です。赤松宗家第十代を継いだ義村は播磨・備前・美作三国の守護職も継承しますが、すでに備前守護代浦上則宗が抑え、美作は中村則久が守護代でした。本国播磨に関しても浦上則宗守護代とされますが、東播磨には三木城の別所則治が東半国守護として勢力を張っていましたから、則宗の権力が及ぶのは西播磨だけだったように思います。
 
 赤松領国は、浦上則宗を中心に回り始めました。ここで浦上氏について見てみましょう。浦上氏は紀貫之あるいは紀長谷雄の子孫と云われ播磨国揖保郡浦上郷(浦上庄)が出自です。赤松円心時代から重臣として活躍し赤松氏が侍所頭人(長官)に就任すると侍所所司代(副長官)になるほど重用されました。
 
 浦上氏は則宗の祖父宗隆(ただし異説あり)の時代に、まず播磨国境に近い三石城(岡山県備前市三石)を居城に定め備前に勢力を扶植します。そして則宗は傀儡の義村を操って播磨・備前・美作で専横を極めました。美作守護代の中村則久を無理やり更迭し一族の基景を守護代に据えるなどやりたい放題でした。さすがにここまでやると、他の赤松家臣たちが黙っていません。明応八年(1499年)浦上庶流の村国がついに中村城で打倒則宗の兵を挙げ備前播磨国境付近で合戦になりました。孤立した則宗は敗北し白旗城に籠城、家老の宇喜多能家(直家の祖父)の活躍でなんとか撃退し痛み分けに終わります。しかし浦上本家と庶流の浦上村国の対立はこの後20年も続いたそうです。文亀二年(1502年)浦上則宗三石城にて死去、享年72歳。
 
 浦上一族の対立から始まる播磨の内乱は管領細川政元の仲裁でなんとか収まりますが、成長した義村は則宗死後も続く浦上氏の傀儡状態に次第に我慢できなくなります。成人し親政を開始した義村は、浦上村宗則宗の養子宗助の子、あるいは則宗の実子説あり)のほかに小寺則職を並び立たせ、奉行職を設けて大名権力の強化を図りました。
 
 これに不満を持った浦上村宗は、三石城に退去してしまいます。怒った義村は、小寺則職と共に軍勢を率い備前・美作の浦上氏の属城を攻撃しました。一時は守護側が優勢でしたが、浦上方は家老・宇喜多能家を中心に反撃を開始、浦上配下の国人たちも守護軍に抵抗したのでついに敗退、義村は置塩城に逃げ帰ります。赤松宗家の威信は完全に失墜しました。
 
 義村は、威信回復に必死だったのでしょう。中央政界で細川政元暗殺をきっかけに始まった細川家の後継者争いに介入、泥沼に陥りました。浦上村宗は、永正十七年(1520年)義村に圧力をかけ隠居させます。赤松家督は嫡子政村が引き継ぎました。その後義村は復権をかけて色々画策しますがことごとく失敗、村宗から和睦を持ちかけられのこのこと会見場に出向いたところを捕縛され室津城に幽閉されます。大永元年(1521年)9月、村宗の放った刺客によって暗殺されました。以後、赤松家は政村(のち晴政と改名)、義祐、則房、則秀と続きますが名目だけの守護家として置塩城の一地方勢力に過ぎなくなります。
 
 播磨においても、三木城の別所氏、姫路城→御着城の小寺氏、龍野城の龍野赤松氏など赤松一族が各地に蟠踞(ばんきょ)する本格的な戦国時代に突入しました。
 
 
 次回は、本格的戦国時代に突入した播磨の状況と尼子晴久三好長慶の播磨侵攻を描きます。