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播磨戦国史Ⅵ  戦国の草刈り場

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                               尼子晴久
 
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                             三好長慶
 
 
 赤松義村暗殺によって播磨・備前・美作の旧赤松領国の支配者となった浦上村宗は、永正十七年(1520年)村宗の影響下でわずか8歳で家督を継いだ赤松晴政(政村、政祐と改名しているが晴政で統一)を擁し、戦国大名への道を進み始めました。
 
 しかしこれに反発する赤松旧臣も多く、浦上一族の村国らは置塩城から晴政を脱出させ細川澄元を頼ります。実は混乱すると思って細川氏の内紛は詳しく触れなかったのですが、管領細川政元暗殺後、彼に実子がいなかったため養子の高国と澄元が細川京兆家(宗家)の家督を巡って争っていたのです。
 
 高国は備中に勢力をもつ細川野州家出身、澄元は京兆家に次ぐ家格を持つ阿波守護(下屋形)細川家出身でした。互いに実家の勢力を背景に足利将軍家まで巻き込んで両細川の乱という大乱が京都を中心に巻き起こっていました。赤松晴政は、澄元の勢力を背景に播磨に入り浦上村宗と対陣します。ところが、播磨の混乱に付け込んで但馬の山名誠豊(山名政豊の子)が再び攻め込んだのです。
 
 ですが山名誠豊の思惑通りには行きませんでした。晴政を擁する浦上村国と村宗は播磨の危機に一時和睦し共同して山名勢に当たります。大永三年(1523年)10月、書写山の戦いで播磨連合軍は山名勢に大勝、誠豊は本国但馬に逃げ帰りました。その後山名家は没落、二度と大勢力になる事はありませんでした。
 
 外敵の脅威が去ると両陣営は再び戦を始めます。晴政は敗北し美作の新庄城に逃げ込みました。晴政が細川澄元派であったため、浦上村宗は自然管領細川高国に接近します。中央政界でもこの頃高国は将軍足利義晴を擁しつつも、細川晴元(澄元の子)に京を追われ劣勢に陥っていました。村宗は、高国の要請を受けると主君晴政と一時和睦し、軍勢を率いて上洛します。
 
 浦上勢の活躍もあって細川高国は京に復帰します。この功により村宗は播磨・備前・美作の守護職を得ました。まさにわが世の春でした。置塩屋形赤松晴政と彼を擁する旧守護派は面白くありません。しかし村宗は力でこれを圧殺しました。このまま細川高国政権が続けばおそらく浦上村宗戦国大名として歴史に名を残したでしょう。しかし歴史はそうなりませんでした。
 
 大永六年(1526年)7月、父澄元の死を受け13歳で当主となっていた細川晴元重臣三好元長(長慶の父)とともに本国阿波で挙兵、丹波の波多野一族とも連携し打倒高国の兵を挙げます。晴元側は将軍義晴を擁する高国に対抗するため、義晴の弟義維(よしつな 堺公方)を担ぎ出していました。
 
 亨禄四年(1531年)、浦上村宗は高国の要請を受け晴元派の根拠地堺を攻撃します。ところが摂津中嶋で足止めされ膠着状態に陥りました。同年6月播磨本国では村宗の専横を快く思わない勢力が晴元と同盟し置塩の赤松晴政を擁し反村宗の兵を挙げます。背後から攻められた高国・浦上勢は総崩れとなり尼崎に撤退しました。これを大物崩れと呼びます。晴元軍の主力は1万5千を率いる三好元長。これに阿波の細川持隆勢8千、播磨の赤松勢は不明ながら数千はいたでしょう。高国・村宗勢も総数は不明ながら少なくとも万は超えていたと思います。浦上勢は数千の戦死者を出したと伝えられます。
 
 浦上村宗は敗走の途中討死しました。野望に燃える男の最期でした。細川高国も尼崎の紺屋の甕の中に隠れているのを発見され捕えられます。高国は尼崎広徳寺で自害に追い込まれました。享年48歳。勝利した細川晴元は将軍義晴と和睦、管領に就任します。浦上氏の家督は嫡男の政宗が継ぎました。主家赤松晴政とは時には和し時には合戦するという奇妙な関係が続きます。
 
 浦上村宗敗死で播磨守護に返り咲いた晴政でしたが、危機は西方よりやってきました。出雲の戦国大名尼子晴久(当時は詮久)の侵攻です。尼子氏は出雲・伯耆を完全に制圧し石見・因幡・安芸・備後・備中と勢力を拡大し当時日の出の勢いでした。天文元年(1532年)頃から尼子勢は美作に進出、当時の美作は守護赤松氏の威令は届いていませんでしたから、数年で尼子氏に制圧されます。天文六年(1537年)が尼子勢最初の播磨侵入でした。この時は小手調べだったようですがたちまち数城が陥れれれました。翌天文七年尼子晴久は自ら大軍を率いて播磨に攻め込みます。播磨の国人たちは相次いで尼子氏に降伏し、小寺氏・明石氏などは進んで尼子勢に加わり赤松晴政攻撃の姿勢さえ見せたのです。一族の龍野赤松氏の龍野城も落城、尼子勢は城山城を播磨経略の拠点と定めました。晴政は居城置塩城が危なくなり東播磨の三木城に逃げ込みます。ところが三木城の別所氏さえ尼子晴久と通じたため播磨から脱出せざるを得ませんでした。この時晴政は堺まで逃亡したそうです。
 
 結局尼子氏の播磨支配は天文九年(1540年)まで続きます。ただ支配が終わったのは外的要因にすぎませんでした。尼子氏は周防の大内義隆と対立が激化したため撤退したに過ぎなかったのです。天文十年晴政は播磨国に戻り置塩城に復帰しますが、その権威は地に堕ち別所、小寺、龍野赤松ら有力国人はすでに守護の命令など聞かなくなっていました。
 
 浦上氏の場合はより深刻でした。尼子晴久が播磨侵攻した時、同時に備前も尼子勢の侵入を受けます。当主浦上政宗はいち早く尼子晴久と結び権力を保とうとしますが、備前にいた弟宗景はこれを良しとせず安芸の毛利元就の援助を受けて兄と対立、備前国人も宗景を援助したため浦上氏は分裂します。宗景は天神山城に拠り備前支配を固め、兄政宗備前での勢力をほとんど失い播磨国室津城を本拠と定めました。浦上氏のその後を記しておくと、兄政宗は永禄六年(1563年)ようやく弟宗景と和睦成立、翌永禄七年小寺氏の家老黒田職隆(孝高の父)と縁組し再起を図りますが、息子清宗と黒田職隆の娘との婚礼の最中敵対する龍野赤松政秀に襲撃され滅ぼされました。
 
 弟宗景は毛利の影響力を廃し備前戦国大名化を図ります。毛利方の三村家親と合戦して勝利、備前を固め備中にも進出しました。ところが重臣宇喜多直家に背かれ天正三年(1575年)には毛利氏と結んだ宇喜多直家のために本拠天神山城から追放されます。一時は織田信長を頼ったそうですが協力は得られず備前への復帰はついに叶いませんでした。晩年は黒田長政の招きで筑前に下向、出家して七十~八十余歳で病死したと伝えられます。
 
 
 時代は天文十五年(1546年)まで戻ります。管領細川晴元は将軍足利義晴と対立しこれを廃します。義晴の息子義輝を足利十三代将軍に据えますが、家老三好長慶(元長の子)が次第に権力を持ち始め天文十七年には長慶が離反し合戦となります。これに敗北し将軍義輝とともに近江坂本に逃れた晴元でしたが、次第に勢力を失い最後は長慶と和睦し摂津普門寺に幽閉されました。永禄六年(1563年)そのまま普門寺で病死、享年50歳。
 
 三好長慶畿内を制圧し天文二十三年(1554年)には長慶の武将三好長逸三好三人衆の一人)率いる三好勢が東播磨に侵入します。長逸は三木城の別所氏を攻め、三好の別動隊は淡路から海路播磨に上陸、明石氏を攻撃しました。三好長慶播磨侵入の名目は播磨守護赤松義祐(晴政の子)を後援するためでしたが、もとよりこれは口実にすぎず播磨支配を狙ったものでした。優勢な三好軍を前に播磨の国人たちは従うしかありませんでした。尼子氏に続き三好氏にも屈服した播磨国人たち。
 
 三好氏の播磨支配を覆したのも、また外的要因でした。永禄七年(1564年)三好長慶が没し養子の義継が家督を継ぐと、次第に専横の姿勢を見せ始めた家宰松永久秀三好三人衆と語らって将軍足利義輝を二条城に襲撃、殺害していまします。ところが久秀と三人衆が間もなく三好家の支配権を巡って対立、合戦に陥ったため播磨が権力の空白地帯になったにすぎませんでした。
 
 
 
 そして、戦国時代は織田信長のもとに収斂されようとしていました。次回、最終回『戦国播磨の終焉』にご期待ください。