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阿波戦国史Ⅵ  三好長慶の台頭

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 三好長慶(1522年~1564年)は、父元長が対立する主君細川晴元にはめられ敗戦の責任を取らされて自害した時わずか10歳。元長の遺児は4人おり、末弟一存は父が死んだときまだ生まれたばかりの幼児でした。

 管領細川晴元は、元長排除に利用した一向一揆が手に負えなくなりついには畿内から叩き出されてしまいます。淡路に逃げ込んだ晴元は、1334年摂津池田城に戻り態勢を立て直すとようやく一向一揆と和睦します。この際、河内の木沢長政の仲介で阿波に居た長慶と和解、家臣に組み入れました。

 わずか10歳の長慶に何ができたでしょう?晴元に対する恨みは残しつつも表面上は臣従する事となります。晴元は同じ三好一族の政長(長慶の大叔父)を重用し若年の長慶は軽んじました。そんな中、伊丹親興、三宅国村、塩河政年(細川高国の娘婿)が河内の木沢長政と結び反晴元の兵をあげます。彼らは亡くなった旧主高国の養子氏綱を擁立し晴元に対抗させます。

 晴元は、長慶、三好政康(政長の子)、池田筑後守、波多野稙道らを遣わしこれを攻めますが、一進一退を繰り返し戦線は膠着します。晴元は氏綱と一旦和睦しますが、1546年紀伊・河内守護畠山政国、その重臣遊佐長教と結んだ氏綱が再び反乱を起こすと、晴元陣営は収拾がつかなくなりました。

 というのも晴元陣営の中で長慶と政長の対立が表面化していたためで、長慶は主君晴元を裏切り氏綱陣営に走りました。三好家中にはもともと主君晴元に対する不信感があったのでしょう。そして晴元に重用される政長を一族の裏切り者と見ていたのかもしれません。長慶は1549年江口の陣を急襲し政長を討ちました。

 政長、高畠長直ら多くの重臣を討たれた晴元は、身の危険を感じ将軍義晴、その息子義輝を擁し近江坂本に脱出します。1552年長慶と氏綱は軍を率いて上洛、氏綱は念願の管領職を得ました。従四位下右京大夫の官位を貰い自らを摂津守護に任じます。実はこの氏綱が、室町幕府でも細川京兆家としても最後の管領(第35代)になります。

 すでに1550年十二代将軍義晴は、近江国穴太で病死しており、嫡子義輝が後を継ぎました。劣勢の晴元唯一の強みが足利将軍を擁していることでしたが、肝心の義輝が1552年1月氏綱・長慶と秘かに和睦し帰洛すると晴元の立場は悪くなります。その後もしつこく長慶と戦いますが、1561年六角・畠山と結んで挑んだ最後の決戦に敗れ長慶と和睦、普門寺に幽閉されました。失意の晴元は1563年普門寺において50歳で死去。

 細川氏綱管領に就任したものの、三好長慶の傀儡でした。その氏綱も1564年1月死去します。長慶は将軍義輝を擁し、管領でこそなかったものの従四位下修理大夫、伊賀守、筑前守の官職を得ました。さらには摂津守護代、幕府相伴衆に任命されます。相伴衆というのは、通常管領の一族か有力守護大名に与えられる身分で、将軍の宴席や他家訪問に随行する役目でした。いわば名誉職のようなものですが、席次は管領に次ぐものとされ長慶の場合は幕府を主導する実力を示したものと言えます。

 実質的な天下人として長慶は山城・摂津・丹波・淡路・和泉・阿波の六か国を支配し、大和・河内・播磨へも進出する勢いでした。長慶の次弟義賢は阿波守護下屋形細川持隆守護代となります。三弟冬康は淡路の豪族安宅(あたぎ)氏の養子になり家督を継ぎました。安宅氏は淡路の水軍を掌握しており長慶には大きな力となります。末弟一存も讃岐の有力豪族十河氏の養子に入り、讃岐もまた長慶の勢力に入りました。

 兄弟4人が団結している限り三好氏は安泰です。ここに一人の人物が登場します。彼の名は松永久秀(1508年~1577年)。山城国西岡の地侍の子、あるいは商人の生まれとも言います。1533年頃、長慶に見いだされ祐筆(武家の秘書役)となりました。

 久秀は、文人としても武人としても有能で長慶は久秀を重用し重臣として一部の軍勢の指揮を任せるようになります。久秀は戦功を重ねついに三好家の家宰の地位を得ました。ただ久秀は有能ではあっても、その性姦佞な人物でした。長慶の弟義賢やその家老篠原長房は早くから久秀の正体を気づき、久秀を遠ざけるよう長慶に進言します。

 しかしすっかり久秀を信用しきった長慶はこれを聞き入れませんでした。1561年長慶の末弟十河一存が病没します。30歳の若さでした。次弟三好義賢は1562年宿敵畠山高政との合戦で討死していますから、長慶は大黒柱である二人の兄弟を相次いで亡くしたことになります。

 戦死した義賢は別として、一存の死は久秀から毒殺されたのではという噂も立ちました。真相はともかく、久秀にとって自分を掣肘する者たちが相次いで亡くなったことは朗報でした。頼みとする弟たちの死で衝撃を受けた長慶は、政治に対する興味を失い河内国飯盛山城に引きこもります。久秀の専横はますます激しくなりました。

 久秀は唯一残った長慶の弟安宅冬康に謀反の疑いありと讒言します。冬康は人格者として有名で全くの無実でしたが、そのころ期待していた嫡男義興の急死(これも久秀の毒殺とされる)で失意のどん底と錯乱状態だった長慶は、讒言を信じ冬康を飯盛山城に召喚、言い訳も許さず自害させました。1564年6月の事です。

 結局すべての兄弟を失った長慶は、1564年8月42歳の若さで病没します。死の間際冬康がどうやら無実だったと気づいたことも病気を重くした原因になったと云われます。病床の長慶はようやく奸臣久秀の排除に動きますが後の祭りでした。





 次回長慶死後の三好家と、阿波における下屋形細川家の状況を記します。