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阿波戦国史Ⅶ  阿波下屋形家の暗雲

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 1564年8月三好長慶が病死すると、三好家の家督は長慶の弟十河一存の子で長慶の養子になっていた義継(1549年~1573年)が継ぎます。十河一存には実子が義継しかおらず、そのために一存は兄義賢から養子を迎えなくてはなりませんでした。これが存保です。

 義継は三好家督を継ぎ左京大夫の官位は得たものの実権はなく、重臣松永久秀三好三人衆の傀儡に過ぎませんでした。三好三人衆とは三好長逸三好政康(政康は間違いで政勝、出家して宗渭という説あり)、岩成友通のことで、彼らが実質的に三好家を動かします。

 新参者の松永久秀三好三人衆が合うはずもなく両者は血で血を洗う抗争を繰り返すことになりました。彼らは将軍義輝を攻め殺すという大罪を犯すのですが、その前に阿波の状況を説明しておかなければなりません。

 話は応仁の乱直後までさかのぼります。下屋形阿波守護家五代細川成之(しげゆき、1434年~1511年)は、応仁の乱では宗家京兆家の管領細川勝元陣営にあって戦い続けました。1478年娘の死で世を儚んだ成之は、嫡子政之に家督守護職を譲り出家してしまいます。1488年政之が早世したため、次男義春が後を継ぎました。

 あろうことか、その義春も1497年病死したため、成之にとっては孫にあたる之持(義春の嫡男)が継承します。之持は若年だったため、成之が後見することとなりました。1504年管領細川政元重臣薬師寺元一が主君政元追放を図って反乱を起こします。これはすぐ鎮圧されたのですが、政元は成之の関与を疑い両者の関係は冷え込みました。

 政元は、一時は成之を討つため阿波遠征すら計画したようです。これを知った阿波細川家は、重臣三好之長が機先を制し淡路を攻撃。政元も讃岐、阿波に軍勢を派遣するなど一時は一触即発となります。ただ細川一族の内紛は他家を利するだけとその愚を悟った両者は、政元の養子に亡き義春の次男澄元を迎えることで和解しました。ですから阿波守護之持と澄元は兄弟です。1506年成之は上洛する孫澄元に重臣三好之長と阿波勢を付けて送り出します。以後之長は細川京兆家重臣として仕え澄元を補佐しました。

 1507年管領細川政元は家臣に暗殺させ非業の最期を迎えます。政元死後の家督をめぐって澄元と之長が両細川の乱に巻き込まれていったことは以前書きました。出家していた成之も孫を助けるために奔走しますが、1511年船岡山合戦で敗北した澄元は本国阿波に逃げ帰ります。成之も気落ちし同年78歳で死去しました。

 下屋形阿波守護家八代細川之持が1512年27歳の若さで夭折します。阿波細川家は三代にわたって当主が若死にするという不幸に見舞われました。九代を継いだのは之持の嫡子持隆(1497年~1553年)です。この時15歳。ただこの計算だと之持が11歳か12歳で子供を設けていることになるので、さすがに持隆の生年は間違いかもしれません。ともかく持隆が家督守護職を継承したとき10代前半だったことは間違いありません。

 当主が若年だったため、阿波国三好長慶の弟義賢が守護代として実権を握りました。成長するにつれ、持隆はこの状況が我慢できなくなります。阿波国内には持隆に同情し義賢に反発する武士が多かったそうですから、守護持隆と守護代義賢は次第に反目するようになりました。

 両者の対立が決定的になったのは、1534年十代将軍義稙の養子義維を持隆が阿波に迎え入れたことがきっかけです。持隆は那賀郡平島荘に屋敷を建て義維を住まわせました。義維は平島公方と呼ばれます。一時は次期将軍と目されるも京都に入れず今は遠く阿波の地でわずか従者6人で暮らす義維に持隆は同情します。

 勝瑞城の持隆は、阿波の軍勢を使って義維を将軍職に就けようと1553年国内に動員令を発しました。ところが実質的な京都の支配者三好長慶はすでに十三代将軍義輝を擁しており、持隆の動きは邪魔でしかありませんでした。一応持隆は長慶の主筋に当たるので、持隆が京都に来ると細川一族や、心ならずも長慶に従っている旧澄元派、高国派が持隆に寝返る可能性もあり三好政権にとっては非常に危険でした。

 兄長慶の意を受けた守護代義賢は、見性寺で守護持隆を暗殺します。享年57歳。この事件がきっかけで阿波では守護細川派と守護代三好派で真っ二つになり争うようになります。持隆が、増長する守護代義賢を除こうとして露見し逆に殺されたという説、あるいは失脚した細川晴元を持隆が支援しようとしてことに義賢が危機感を抱いて殺したという説もあります。

 このように、三好一族の支配は脆弱なものでした。本国阿波においても盤石ではなかったのです。守護持隆の動きは、三好一族に奪われた阿波支配権を取り戻そうとする動きでもありました。阿波守護職は嫡子真之(1538年~1582年)が継ぎますが、名目だけの存在で一国支配には至りませんでした。

 真之の母は悪女で有名な小少将で、夫持隆の生前から三好義賢と通じていたと言われます。義賢との間に長治と十河家に養子に入った存保という子供を設け、真之と彼らは兄弟で殺しあう壮絶な関係となりました。主君の妻を奪い、その主君を弑した義賢も末路は良くありませんでした。義賢の家老篠原長房は、悪女小少将を遠ざけるようしばしば義賢に諫言しますが、小少将の美貌に溺れきった義賢は受け入れませんでした。

 1562年阿波勢を率いて和泉国に出陣していた義賢は、畠山高政紀州根来衆との戦いで敗北、戦死します。享年36歳。義賢の後は長男長治が継ぎます。阿波守護細川真之と守護代三好長治は異父兄弟なので、普通なら母小少将が仲を取り持ち和解する道もあったはずです。しかし根っからの淫奔な性格だったのでしょう。息子たちの争いは無視し、家老篠原長房に近づこうとしました。当然長房は拒否します。すると長房の弟自遁が彼女の毒牙にかかります。

 長房は自遁に再三忠告したそうですが、美女に溺れた自遁はこれを聞き入れず、逆に主君長治に「長房に謀反の疑いあり」と讒言しました。讒言したのは小少将だったともいわれますが、経験の薄い長治はこれを信じ1573年長房を攻め滅ぼしました。篠原長房は三好家を支える大黒柱です。長房健在の間は松永久秀ですら勝手なことはできなかったと言われます。その長房を討ったことで三好家の命運は尽きました。




 阿波国は真之と長治の兄弟同士の戦争に突入します。しかしその前に、松永久秀三好三人衆による将軍義輝暗殺を描かなければなりますまい。