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阿波戦国史Ⅷ  将軍弑殺

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                         ※ 足利13代将軍義輝
 
 
 1564年実質的な天下人三好長慶は病死しました。時の将軍足利義輝は長慶の傀儡として将軍の実権を奪われたことに我慢できず、復権の機会を虎視眈々と狙います。1559年上杉政虎(のちの謙信)が越後勢5千を率いて上洛したとき、将軍家の惨状を憂い義輝に「三好・松永を討ちましょうか?」と尋ねたそうです。
 
 この時義輝は三好長慶の反撃を恐れ政虎の申し出を断ったそうですが、もしこの時政虎の申し出を受けていれば歴史は大きく変わったかもしれません。というのも軍事的才能では長慶より政虎の方がはるかに上で、越後勢が一度でも三好勢を破れば、もともと三好氏に反感を持っていた武士たちは多かったはずなので雪崩を打って義輝陣営に加わった可能性もありました。
 
 義輝は剣豪塚原卜伝に秘剣一の太刀を伝授され剣豪将軍と呼ばれたほどですが、いざという時乾坤一擲の決断はできない性格だったようです。三好長慶やその家宰松永久秀らは、媚びんばかりに政虎の機嫌を取り続け穏便に帰国させました。この点政治力では彼らの方が一枚上手だったわけです。生涯一度の最大の機会を逃した義輝ですが、長慶が死んで一番喜んだのは彼かもしれません。
 
 後を継いだ長慶の養子義継(十河一存の子)は、凡庸で義輝がどうとでも操れると考えました。ところが、三好家を実際に動かしたのは家宰松永久秀重臣三好三人衆らでした。長慶は武人と同時に文化人としても教養が高く、あからさまに義輝を蔑ろにする態度はとりませんでしたが、久秀や三人衆は露骨に将軍義輝を圧迫しました。
 
 危機感を抱いた義輝は、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、奥州の伊達氏、安芸の毛利氏、出雲の尼子氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏などに書状を遣わし上洛を促します。彼ら戦国大名たちは、一応将軍家を尊重しますが国内事情からとても上洛する余裕はありませんでした。ですから空手形に過ぎなかったのですが、久秀や三人衆はこれを将軍の裏切りと取ります。
 
 久秀と三好三人衆は将軍義輝殺害を計画しました。すでに旧主阿波守護細川持隆を殺しどんな悪行もハードルがかなり下がっていたのでしょう。下克上の典型と言えますが、それにしても将軍を京都において攻め殺すという事は前代未聞でした。
 
 1565年5月19日、清水詣でと称する1万2千の兵が京都に入ります。率いるのは松永久秀三好三人衆ら。軍勢は清水寺には向かわず、将軍義輝の住む二条御所を囲みました。三好家の三階菱に釘抜、久秀の蔦の旗印を見た義輝は死を覚悟します。
 
 御所に雪崩れ込む三好勢を相手に、義輝は秘蔵の名剣二十振り余りを畳に突き刺し、敵兵を斬り続けました。刃こぼれすると剣を取り換えあたかも阿修羅のごとく戦ったと言われます。しかし、体力には限界がありました。三好方の雑兵が義輝の足を槍で薙ぎ払い、倒れたところを寄ってたかって串刺しにされたそうです。将軍にあるまじき非業の最期でした。享年30歳。
 
 すでに足利将軍家の権威は地に堕ちていたとはいえ、この事件は世間に大きな衝撃を与えます。永禄の変と呼ばれる事件ですが、三好、松永勢が京都を軍事的に制圧していたため、その怒りの声は封殺されました。
 
 
 将軍不在ではいかに松永らが暴虐でも天下を治められません。そこで目を付けたのが阿波で逼塞する平島公方義維の子義栄(よしひで)です。自分たちがさんざん圧迫した義維の子を持ち出すのですから、随分世間を舐めた話ですが、早速担ぎ出し朝廷を脅して将軍宣下をさせます。これが室町幕府第14代将軍義栄です。ただ京都情勢が不穏で入京できず、摂津富田に留まりました。
 
 さて、将軍継嗣問題は解決しましたが、三好家内部の主導権争いが残ります。三好三人衆松永久秀を除こうと挙兵、畿内各地で両陣営による戦いが起こりました。久秀は腐っても鯛とばかり主君義継を擁しますが、劣勢は否めなく、両者の戦いで東大寺大仏殿が焼失するなど畿内は荒廃しました。
 
 この時点で久秀に味方したものは紀伊守護畠山高政根来衆など、一方三人衆側には阿波守護代三好長治が付きます。居城信貴山城も落とされ久秀は多聞山城に逼塞しました。このままでは久秀の滅亡は時間の問題です。ところが思わぬところから救世主が現れます。
 
 織田信長でした。1568年9月、亡き義輝の弟義昭を擁した信長の大軍6万が破竹の勢いで上洛します。久秀は、名物茶器九十九髪茄子を信長に献上し降伏しました。将軍義栄を擁している三好三人衆は信長に降る選択はできませんでした。
 
 織田の大軍の前に圧殺されるように畿内各地で敗退を重ね、三好三人衆は阿波に逃亡します。この一連の戦いで三人衆の一人岩成友通が戦死、三好政康(宗渭)病没。何度か反抗を試みるも、そのたびに織田軍に撃退され三好三人衆の勢力は雲散霧消しました。最後に残った長逸も、1569年5月には死去したと言われます。あれだけ猛威を振るった三好一族は織田信長によって息の根を止められました。十四代将軍義栄は一度も京都に入ることなく病没します。十五代そして室町幕府最後の将軍として義昭が就任しました。
 
 三好義継は久秀と行動を共にしたことで助かり、河内北半国と若江城を安堵されます。ところが1571年久秀と共に武田信玄を盟主とする反信長連合軍に加わり謀反。要領の良い久秀がさっさと信長に降伏して助かったのに比べ、ぐずぐずしていたため1573年11月織田信長の命を受けた佐久間信盛の大軍に若江城を攻められ敗北。妻子とともに自害しその首は信長に送られました。享年25歳。義継の死をもって三好家嫡流は途絶えます。
 
 松永久秀の末路も哀れでした。裏切り続けた人生の最後は、1577年上杉謙信の上洛を頼み再び信長に背きます。しかし謙信は加賀まで来たものの反転、関東出兵準備中に急逝しました。敵中に孤立した久秀は信貴山城で籠城。信長は名物平蜘蛛の茶釜を差し出せば助命すると申し出ました。信長が名物茶器欲しさに申し出たことでしたが、今回助かってもいずれ理由をつけて殺されることが分かっていた久秀はこれを断ります。裏切り続けた久秀だからこそ、相手の嘘がよくわかるのです。
 
 1577年10月10日、自ら平蜘蛛の茶釜を叩き割った久秀は天守閣で自爆しました。享年68歳。ちょうど10年前久秀が東大寺大仏殿を焼いた日と同じだったことから、人々は神仏の祟りだと噂します。ともかく久秀の死によって、畿内における三好一族の勢力は完全に滅び去りました。生き残った他の三好一族はすべて信長に臣従します。
 
 三好一族に残された領土は阿波と讃岐でした。阿波には三好長治が、讃岐には十河存保の兄弟が居ます。彼らも強大化した織田信長に屈服するしかありませんでした。ただ、阿波は守護細川真之派と守護代三好長治派が血で血を洗う大抗争の最中です。
 
 
 
 次回滅亡への序曲にご期待ください。