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播磨戦国史Ⅶ  戦国播磨の終焉

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 戦国時代、統一勢力がなく小領主が割拠ししかも豊かな国というのは周辺の戦国大名の恰好の攻撃目標になりました。これを兵法では『四戦の地』と呼ぶそうですが、九州の筑前・肥後あるいは東国の越中信濃・武蔵あたりはまさにそれに当たります。中国地方でも播磨がそうでした。
 
 守護大名赤松家が没落、それに代わるべき浦上家も大物崩れで退場したあと播磨を狙って尼子氏、三好氏が進出した話は前回書きました。そして播磨は最強にして最後の敵織田信長の進出を迎えようとしていたのです。
 
 実はその前に毛利氏の進出があるのですが、毛利氏は家祖毛利元就以来天下に対する望みは持たずひたすら家領の拡大に努めていました。備前宇喜多直家を降したあと毛利氏は播磨に関しては外交的進出に止めます。一方、永禄十一年(1568年)9月、上洛して以来天下統一への道を着々と進める織田信長は播磨へも野心を持ち続けていたのです。
 
 ここに一人の人物が登場します。その名を黒田官兵衛孝高。御着城小寺政職(則職の子)の家老でした。黒田氏は佐々木源氏京極氏の流れとされますが、孝高の曾祖父高政の時代に備前福岡に移り住み赤松氏の被官となりました。その子重隆(孝高の祖父)は播磨国姫路に移り住み家伝の目薬で財をなし土豪となったと伝えられます。その勢力を見込んで御着城の小寺氏が重隆の子職隆を招き家老としました。小寺氏は、職隆に小寺の姓を与え御着に移るまで小寺氏の本拠だった姫路城さえ任せます。
 
 新興の家とはいえ、赤松一門の小寺の姓さえ与えられ没落したものの旧守護代家の浦上氏と婚姻を結ぶほどでしたので、播磨ではそこそこの勢力になっていたと思います。その頃小寺家中では毛利につくか織田につくかで揉めていました。孝高は、あらゆる情報を総合した結果織田信長の方に将来性があると考え強引に小寺家の家論を纏めます。天正三年(1575年)7月、主君小寺政職の使者として岐阜の織田信長のもとに赴いた孝高は、信長に拝謁して臣従を誓います。この時取次した羽柴秀吉と縁を生じた孝高はそのまま秀吉の幕下に属する事となりました。
 
 孝高は、ひとまず播磨に帰り別所氏など各勢力の間を回り織田方につくよう説得します。その功あって翌年小寺政職赤松広秀(龍野赤松政秀の嫡子)、別所長治らは揃って京で信長に謁見しました。
 
 信長は秀吉を毛利攻めの大将に任命し、孝高ら播磨勢もこれに従う事となります。秀吉は天正五年(1577年)播磨に入りました。黒田孝高の働きで播磨国人たちの人質を取り播磨を瞬く間に制圧しました。余勢をかって但馬を攻略、そのころ宇喜多直家の属城となっていた西播磨上月城を攻略します。上月城には、毛利氏に復讐を誓う山中鹿介ら尼子浪人衆を入れました。
 
 ところが天正六年春、東播磨八郡を領する三木城の別所長治が突如反旗を翻します。これには長治の叔父で毛利贔屓だった別所賀相(よしちか?)と織田贔屓だったその弟別所重棟の対立があり、このまま織田方につくと重棟が勢力を持ち自分が没落する事を恐れた賀相が若年(二十歳)の当主長治を説得し毛利方につかせたと云われます。蜂起は重棟が秀吉の陣中にいる間に行われ、何も知らされていない重棟はそのまま羽柴軍中に取り残されました。
 
 また別の説として、毛利攻めの軍議で秀吉が別所氏を蔑ろにする発言をしたため賀相が怒ったのが原因とも云われますが、どちらにしろ厳しい信長より中国者の律義と云われる毛利の方に播磨国人たちがより好感をもっていたのでしょう。別所氏の反乱は東播磨の国人たちが次々と同調し収拾がつかなくなりました。
 
 それに呼応し、毛利方も小早川隆景吉川元春が三万の大軍を率いて上月城に攻め寄せます。羽柴秀吉黒田孝高とともに書写山に陣を布きますが、信長は上月城を見捨てて三木城に向かうよう命じました。援軍の望み断たれた上月城は落城、尼子勝久は自刃し山中鹿介は毛利方に捕えられ処刑されます。
 
 さらに間の悪い事に摂津の荒木村重まで信長に謀反、村重と旧知の孝高は村重に翻意を促すため有岡城に赴きそのまま捕えられるというエピソードがあります。孝高が裏切ったと勘違いした信長は、人質の孝高嫡男松寿丸(のちの長政)処刑を命じますが、竹中半兵衛の機転で助けられ生き延びたと云われます。後に孝高裏切りが誤解だと分かり信長は後悔したそうですが、松寿丸が生きていたと知り事なきを得たという話です。
 
 三木城謀反の時、孝高の主君小寺政職も呼応しました。しかし織田信忠の軍勢に御着城を攻められ鞆の浦に逃れ戦国大名としての小寺氏は滅びます。その後政職の子孫は黒田氏に仕えたそうです。
 
 天正七年(1579年)10月19日摂津有岡城落城。幽閉されていた黒田孝高は家臣栗山利安に救出されます。包囲され完全に補給を断たれていた三木城には飢餓地獄が訪れていました。天正八年1月、足掛け二年の包囲を耐えていた三木城がついに開城します。城主別所長治は城兵の命と引き換えに妻子兄弟と共に自害しました。享年26歳(23歳との説もある)。
 
 
 三木城落城によって播磨の戦国時代は終わったと言えます。織田家に反抗的な播磨の国人たちはこの時ことごとく淘汰されました。秀吉は孝高から譲られた姫路城を本拠に播磨支配を固めます。天正十年(1582年)6月、本能寺の変で横死した織田信長の弔い合戦のため、中国大返しをした秀吉は姫路城で準備を整え出陣します。
 
 戦国時代は終焉を迎え、天下統一の時代が始まろうとしていました。播磨は地方の群雄割拠から一気に中央政治に巻き込まれてゆくのです。