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出雲尼子軍記Ⅸ 上月城に消ゆ(終章)

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 大黒柱元就を失っても、毛利家は輝元を二人の叔父吉川元春小早川隆景が補佐し盤石の構えを見せていました。一方、山中鹿助ら尼子再興軍は多くの同志を戦で失い、ある者は毛利方に寝返り、鹿助の叔父立原久綱、娘婿亀井茲矩(これのり)らわずかばかりとなります。陶晴賢を討ち尼子義久を滅ぼした毛利氏は、今や山陰山陽12か国を治める巨大勢力となっていました。これに対抗するにはもっと大きな力が必要でした。鹿助らは、織田信長に期待します。信長は当時畿内をほぼ平定し中国地方の毛利氏への野心を示し始めていました。そのために尼子残党に利用価値を見出したのです。鹿助は織田の重臣柴田勝家を通じて信長への謁見を果たします。勝久と共に信長へ拝謁した鹿助は、武辺好きの信長に気に入られ四十里鹿毛の名馬を賜りました。とりあえずは中国戦線を担当する羽柴筑前守秀吉の配下に組み入れられます。

 尼子一党も参加した秀吉の中国遠征軍は、1577年10月播磨国に攻め込みました。播磨小寺氏の家老黒田孝高(如水)の手引きで御着城の小寺氏、三木城の別所氏ら有力豪族が瞬く間に帰順し11月中にはほぼ播磨を平定、但馬へも進出します。織田軍は播磨国で最後まで抵抗した上月城の赤松政範を攻め滅ぼしました。上月城は対毛利の最前線となるため、秀吉は尼子一党に上月城へ入るよう要請します。敵中に孤立する可能性のある上月城入城は勝久も立原久綱も反対したそうです。しかし鹿助は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と主張し秀吉の申し出を受けました。

 播磨は秀吉が平定したかに見えました。ところが播磨の国人たちは織田家の勢いが強いため表面上従っているだけで、秀吉が高圧的な態度を取るのに反感を抱きます。そこへ毛利氏の調略が及び、1578年2月播磨最大の勢力三木城の別所長治が突如反旗を翻し籠城しました。毛利方は吉川元春小早川隆景を大将とする5万の兵で上月城を囲みます。

 城兵はわずか5百。秀吉は上月城を救援するため書写山に1万の兵で陣を構えますが、数が違いすぎて遠巻きにするのみでした。秀吉のもとに信長から命令が届きます。「上月城は捨て三木城攻略に専念せよ」ただ、このまま上月城を見殺しにすれば秀吉の評判が地に堕ちます。悩む秀吉は、たまたま上月城を離れ秀吉の陣に連絡に来ていた亀井茲矩を召し出しました。

 秀吉は茲矩に、上月城に忍び入り勝久らに城を脱出するよう勧めよと命じました。若い茲矩の目にもそれが不可能なことは分かります。上月城は長い籠城戦で数多くの負傷兵が出ていました。幹部だけが彼らを見殺しにして脱出できるはずがありません。それにもし脱出したところで、毛利方は城を十重二十重に囲んでおり捕まることは必定でした。秀吉は後世の評判のために上月城を救うポーズを示しているにすぎません。はらはらと涙を流す秀吉の目が決して本心ではないことは容易に見て取れました。しかし秀吉の命令を拒むことはできません。
茲矩は万難を排し上月城に入ります。

 鹿助と会見した茲矩は秀吉の命令を伝えますが、鹿助は寂しく笑うのみでした。勝久を囲み最後の軍議が開かれます。毛利方に使者を送り鹿助、久綱以下重臣全員腹を切る代わりに勝久を助命するよう頼みますが拒否されました。毛利方は逆に降伏の条件として勝久の切腹を求めます。

 その日城では別れの宴が開かれました。席上勝久は「私は僧のまま一生を送るはずであった。それを皆のおかげで尼子の大将となり面白い生き方をさせてもらった。皆に感謝する」と述べます。尼子一党は涙を流しました。

  翌日、勝久は嫡男豊若丸、一族の氏久(晴久の末子と伝えられる)らとともに自害します。享年26歳。これを見届けた毛利方は、鹿助らに殉死を許さず捕らえました。1578年7月5日の事です。鹿助最後の願いは、吉川元春と会見し隙を見て差し違えることでした。ところが毛利方は、鹿助の腹などとうにお見通しで、厳重に警護しながら備中松山城にいる毛利輝元のもとへ連行します。途中、備中国阿井の渡しに差し掛かりました。船を待つため小休止し、鹿助も河原の石に腰掛けます。すると突如背後から斬り付けられました。天野隆重の家来河村新左衛門です。袈裟懸けに斬られ鹿助は重傷を負いました。とっさに川に飛び込んだ鹿助でしたが、毛利方は次々と斬りかかり鹿助は壮絶な斬り死にをします。享年34歳。山中鹿助幸盛、波乱の生涯は甲部川の畔に終焉を迎えました。







 勝久の死、そして鹿助非業の最期で戦国大名尼子氏の歴史は終わります。その後の尼子一党を紹介しましょう。


 まず鹿助と共に捕らえられた叔父立原久綱。毛利方は鹿助ほどの危険人物とは見ていなかったのでしょう。警備が甘かったため脱出に成功、娘婿で蜂須賀家に仕えていた福屋隆兼を頼りました。1613年阿波国で83歳の生涯を閉じます。


 次に亀井茲矩(1557年~1612年)。上月城落城の時秀吉の陣にいて助かった茲矩は、生き残った尼子残党を纏めそのまま秀吉に仕えました。秀吉も上月城を見殺しにした負い目があったのでしょう。また茲矩自身も戦功をあげ24歳の若さで因幡国鹿野城1万3千石を与えられます。関ヶ原では東軍に与し戦後3万8千石に加増。一部ではありましたが、茲矩の下で尼子一党は生き残りました。その後亀井家は、茲矩の子政矩の時代に、石見国津和野4万3千石に加増転封され幕末まで続きます。


 あくまでも伝説ですが、大坂の豪商鴻池の始祖は山中鹿助の遺児新六幸元(直文)だと言われます。鹿助の大伯父山中信直を頼り伊丹に匿われ、成長すると武士の道を諦め酒造業で財を成したそうです。本当なら面白いですね。


 亀井茲矩に嫁いだ鹿助の娘時子は養女で、尼子氏の重臣亀井秀綱の長女でした。はじめ湯氏を称していた茲矩は、時子と結婚することで名門亀井家を継いだのです。



 余談ついでにもう一つ。経久の章で出てきた山中勘兵衛勝重の孫が山中鹿助幸盛です。山中家は尼子氏の勃興と滅亡すべてに関わっていたことになりますね。



                                 (完)